優しいホモたち

この辺にぃ、急に虚しさを感じる人たち、来てるらしいっすよ!

布石

ふう、と一息つく。
足の鈍い痛みを感じて1日のほとんどを立ちっぱなしで過ごしていたことに気がつく。

しかし、不思議とその痛みは充実した気持ちをもたらす。僕のやりたいことを、今僕は目指している。この作業も、そのための一歩。

バイオリンを先生に習ったときに、身体をどうやって操るか?どうやって脳みそにうまく働いてもらうか?身体の機能的な理論と、実際に自分の身体がどう動いていくのか、僕自身の身体のつくりは僕だけの特有のものだから、それとうまく付き合って、身体を動かすことを学んだ。

その基本は今の木工作業、刃物の扱いにも通じる。

バイオリンを作るのも結局は身体をどうやって使うか。自分の身体をどうやって動かしていくか、それを突き詰めていく作業であるからだ。

理屈と実際の経験をうまく混ぜ合わせて実践していくことほど有意義なことはない。

本で読むだけ、人から習うだけ。
与えられただけのものにどれ程の意味がある?

学びと言うのは、習うことと実践することがひとつになっていないと、それは学びではなくなる。

そして僕は、今までの一生懸命にやってきた僕の人生そのものを使って今と向き合う。
本当の学びの経験は決して無駄にはならない。
学びに意味がないことなんてない。

僕がバイオリンをうまく弾きたいと本気で思い、先生に習い、試行錯誤すればその学びは必ず後の布石になる。
なんでもそうだ。今目の前にあることを、人から習い、本で読み、自分で考え実践する。仕事でも部活でも、家族でも、なんでも。

そうした学んだ経験は知恵となる。
単なる知識ではなく、経験を伴う生きた知恵になる。

思いもしないような点と点が結ばれるのだ。

人生とは不思議で、自分の今目の前にあることと向き合い、学んでいくと、必要なことが手元に揃っていく。
それは結果的に当然、後の人生を豊かにしていくことに繋がるが、その学びを一生続けていく覚悟が出来ていればこそ、そんな豊かさ以上に、自分が学び続けていく、成長し続けていくことに価値を見出だすようになる。

目先の利益や損得に惑わされない目とはその事を言うのかもしれない。

思えばここまで、ずいぶん遠くまで歩いてきたものだ。

僕はこの人生まるごとをかけて歩いている。
人生とはそれだけの価値があるものだ。

ひとつずつクリアしていけばゲームみたいに進んでいくもんだ。必ずそこでクリアしたことは次に、いつかに、役に立つもの。
学びは布石なのだ。

ううむと考えながら目玉をぐるりと回して僕はふと顔をあげる。顔の表情筋がすっかり落ちきっている。

もう笑いたくないですと言った後輩ちゃんの気持ちが今なら分かるかもしれない。
頬を上げておくのは案外筋肉を使う。

また思考に戻るべく疲れた身体を電車の椅子にもたれかけさせた。
少しだけ、表情筋に力を入れて。