就活と向き合う
就活。
僕は今では就活ということの意味が分かる。
新卒を一括で大量に採用するという習慣に基づいた、伝統ある、社会に新人を迎え入れるための仕組みだ。
彼ら新人の面倒を見るのは、かつての新人たちだ。
そうして、先輩後輩の文化となり、教え、伝え、学ぶ流れを作ってきたのだ。かつての新人が、今の新人を教え、自分で学んだことをより、理解するようになる。いつのまにか、先輩となり、時を経るごとにベテランになっていく。
でも、僕は目の前でそれが音を立てて崩れる瞬間を目の当たりにした。それは、その、面倒を見たり、見られたりといったことを、義務感からやるようになる。何で俺がこんなことをやらなくちゃいけないんだ?こんな後輩のお守りなんて、面倒見る必要なんてないだろ?本気でそう思って、変わることがない。
そうすると、組織は音を立てて崩れていく。
一旦は、何で俺が!と言いつつも、だんだん胸が締め付けられるような気持ち、良心の呵責。心がむかむかして、最後には、見捨てられず、面倒を見てやる。そうすることで、先輩後輩文化は脈々と築き上げられてきた。
でも、そこで、平気で「知らない」「私の知ったことではない」と、先輩後輩文化を縦の圧力だと、批判し、否定的な人たちは見捨てていく。
代案があるなら、それでいい。
この、縦の圧力。先輩後輩文化として学びあう人間の、社会のかたちを否定するのなら、せめて、それに代わる新しい土台を提案する必要がある。
そうしないと、ただ、既存の制度を爆撃して、焼け野原にさせてしまうだけで、自分だって苦しくなるし、相手だって、お互いが苦しみあうだけだ。
かつて、僕もただ嫌なものから逃げようとして、この縦の圧力、先輩後輩文化という“レール”を壊そうとした。
こんなもの、あったって、不幸を生むだけだ。
多くの人がそこで悩んでるし、苦しんでる。
それなら、こんなものもう必要ないだろ?
そういう気持ちが、かつて種を蒔いたときにも、なかったとは言えない。むしろ、思いは確かに事実だけれど、そこには同時に、自分が楽になりたいという気持ちだって間違いなくあった。
だから、失敗した。
だけども、皮肉なことに、僕を育ててくれた後輩ちゃんも、僕にバイオリンのてほどきをしてくれた先生も、僕がバイオリンの道に進むきっかけになった大学のオーケストラの先輩も、みんな、先輩後輩文化からの、賜り物だった。
育て、学び、教えあう。
それが脈々と根付いている。
そんな人の営みに、僕は、人同士の縁と繋がりを思う。
そして、僕もそこで育てられてきた。
だからこそ。
その、つながりが、果たせないのなら、良心を無視して、作れないのなら、いっそ、ないほうがいい。そっちの方がきっと幸せだろう?そんな責任や、面倒を見る義務だなんて、やるくらいなら、そんなことしてもなんの意味もない。そのための、つながりではないのだから。
その憤りが、きっと
この文化への強い否定になっていたように思う。
もっと本当は素敵なものなのに!
なんで、その大切さを理解しない?
そう叫びたかったんだろうなと、今では思います。
だからって、壊してはダメだ。
それは、何も生みはしない。それに、多くの人を傷つける。きっと、悲しむよ。君が傷ついたら、誰かが傷ついたら、きっと、悲しむ。
って、それが分からないから
子供のように叫び、駄々をこね、
壊してから、めちゃくちゃになっちゃってから
いけないことをしてしまった!と気づく。
なら、気づいてからやるべきことはひとつだ。
やってしまったことは取り消せない。
でも、またやり直す償いはできる。
人は、案外と優しいものだ。
初めはそんなの信じられるか!
お前のせいでこんなことになってるんだぞ!
そう言うかもしれないけど
態度を見るうちに、そのうち分かってくれる。
そういうもんだろうと、今では思います。