優しいホモたち

この辺にぃ、急に虚しさを感じる人たち、来てるらしいっすよ!

もろもろから逃げないこと

新しい生活が始まった。

もう十分に僕は逃げた。
もう、逃げる必要もないだろう。

仕事を難しくしすぎている大人が嫌だった。
嫌いだった。なんで、もっと、友達みたいに仲良く働けないの?
なんで、仕事だからってかしこまるの?

そんなの、関係ないじゃないか。

仕事と日常を切り離して考えすぎだ。

僕たちが過ごす。

誰かを迎える、誰かを歓迎する、誰かが出ていく、誰かを送り出す。生きて死んで生まれて、そうしてうつろっているだけだ。自然な営みがそこにあるだけだ。

別に、仕事だろうと仕事じゃなかろうと
僕は目の前の人が大切だ。
それは僕が迷った末に見つけた答えだ。

だれであろうと僕は目の前の人たちを愛おしく思う。

そりゃ、色んな人たちがいる。
自分の好みや物差しを当てはめれば、気に入らない、受け入れられないことのひとつやふたつ、あるだろう。

でも、そんなことじゃない。
別に困らせるようなことしたって、構わない。
わざわざ、そんなこと、する人も中にはいるけど、大抵の人は良心を持ってる。それを、自分の色眼鏡で曇らせてしまうのは、きっと、共存を遠ざける。
お互いを遠ざけることになってしまうと思うから。

だから、僕は目の前の人たちが大切だ。
そして、後輩ちゃんと同じように、愛おしくもふざけた奴ら。愛すべき隣人たちだ。

だから、今のマニュアルじみた仕事の教え方に僕はとても、苛立ち、憤慨し、何よりも悲しかった。そんな風に、仕事ってこういうものだ。なんて、教えたら、教えられたら、仕事自体に人間の方が振り回されることになる。

だから、隣人を愛せと、態度で示してきた。
人は必ず心のどこかわずかだったとしても、良心を持ってるから。なんてことはない、物の貸し借りだったり、依頼をしたりされたり、そんなことがお互いに気持ちよくできたら、それだけで、気分がいいじゃないか。
日常なんてそんなことの連続じゃないか。
仕事だって同じだ。頼んだり、頼まれたり。

結局、人がやってることなのに、人を大切にしなかったら、何のためのシステムなんだ。
人を苦しめるために作ったのか?
違うはずだ。

僕が種を蒔こうと思ったのだって
人を大切にしたかったからだ。
心から、そんな4年間を過ごして振り返ったときに、嫌な思いばかりがよみがえってくるなんて、虚しすぎる。嫌なこともそりゃあったけれど、分かりあえない結果もあったけど、あれでよかった。そうしてよかったと、いつか、納得できる日が来る。

嫌なことも理不尽なことも起こるんだ。
起こらないようにするよりも、起こってからどうするか、どうやって乗り越えるか、どうやってその理不尽を、納得いかないことを受け止めるかだ。

その先は、受け止め方次第で変わっていく。
受け止めれば自然にそちらへ進んでいく。

僕は、人を大切にしたい。
目の前の人に、良かったと思ってほしい。
なんだっていい。
簡単なことだって良いんだ。その、簡単なことの積み重ねが、後々の日常になっていくんだから。

それを忘れれば、小さな日常こそ、積み重ねていくものだということを、忘れてしまえば、その場所は途端に過ごしにくい場所になる。
悪口を言い合い、互いを牽制しあい、ぎすぎす、ドロドロした場所になっていく。

僕はその日常を、ほっとできる瞬間を積み重ねていきたいから、その繋がった日常こそ、人を大切にすることだと判断した。
この目で、身体で、見て感じて、人はそんなたいそれたものは求めてないって。
そんな大きなものより、ふとした安心感や、もう頑張らなくて良いとか、そんな、小さな優しさを求めてる。

そんな思いやりを、自然に発生する、人を大切にしたいという気持ちから出てくる思いやりを、マニュアル化して、仕事の手順に取り入れたって、いびつになるのは当たり前じゃないか。

やろうとしてるんじゃないから。

心から知らない間に湧き出て来てしまうんだ。
抑えようと思っても、抑えろと言われても、抑えられない。人を大切にしたい、隣の人を愛したいと思う気持ちが、勝手にあふれでてくる。

だから種を蒔いた。
後輩ちゃんのことがたまらなく愛おしく思えた。

僕の答えは
人を愛したい、大切にしたい。

そのために僕は行動してる。
後輩ちゃんに向けたような愛だけではない。
色んなかたちの、愛し方、愛情、愛おしさがある。

今なら、かつて僕が悲しいと、憤りを感じた仕事のやり方、伝え方、そんな大人への嫌悪感も、確かにあるけれど、それはそれとして、納得できる。

そんなに、過剰に反応して、わざわざ、嫌だ!と叫ばなくていい。不思議とそう思える。
嫌なものは嫌、でも、わざわざ、おおっぴらに叫ばなくても、自分が嫌だというのは分かるし、誰かにそんなもの、伝える必要もない。
自分がそれは嫌だと分かってればそれで十分だ。

もう、声を荒げる必要もない。
僕はこうなんだ!と駄々をこねることもない。

不思議と安心感がある。
自分が自分のことを分かってやれるだけでいい。
今ではそう思える。

そして何よりも
僕は人を愛している。

本当は大好きなのだ。

僕は人が大好きだと思っているのだ。

そこからは離れようとしても忘れようとしても遠ざけようとしても、そうはいかなかった。あちこち、まわり道して、遠回りして、ガツンガツンとぶつけながら、よろけながら、なんてことはない。

やっともとの道へ戻ってこれた。

僕は人を愛している。