優しいホモたち

この辺にぃ、急に虚しさを感じる人たち、来てるらしいっすよ!

正しさを問う

最近は何を悶々と考えているのだろう。

後輩ちゃんを愛おしく思う気持ちはそれはそれで良い。でも、問題は何も解決していない。
僕の考えていた理想は、結局は叶うことはなかった。後輩ちゃんも、楽しく過ごせる時間を得られてはいない。僕のしたことは何だったのだろうか。

種を蒔いたのも、あの思いも確かにそう思ったのは事実にしても、今の現実を見れば、理想の方が上回ってしまって、力量が足りなかった、夢を描きすぎていたのが実際のところなのかもしれない。

4年間を楽しく過ごしてもらいたい。
だから、行動で示してきたはずだった。
でも、問題はそれが“はず”であったこと。

僕は一生懸命にやったつもりだが、それはあまりにも小さすぎる努力だったのかもしれない。今の結果を見て、その現実を突きつけられて自信をなくしているのかもしれない。

だから悶々と自分の語る正しさをもう一度振り返っているのだろう。自分が一生懸命にやった、というのは自己満足にはなるが、果たしてそれが組織全体としての方向性の何になるのか。もしかしたら、自分一人の自己満足を得たいがために、実は迷惑を被っている人が多くいたのかもしれない。

ただ、一生懸命にやるだけでは、それこそ、空回ってしまうし、何よりも、そもそも他人のため、自分のために、環境を良くして、それを維持していくのが目的だったはずだ。

いつの間にか、自分のためだけに、自分が一生懸命にやったという事実を残すためという目的に刷り変わっていたように思う。

理想を語ったはいいが、僕が一人でやれることとしては、部活の環境保全などという目的は大きすぎたようにも思う。
そもそも、みんなでやっていることなのに、勝手に僕が自分の行動や態度で誠意を見せたい、意思を確認してもらえたらなどと、独り善がりが過ぎたのかもしれない。

それなら、この結果は納得が行く。
みんなで部活は作っているのだから、みんなでそれは共有して意思疏通を図って、環境のことは向上や保全に努めていく方がきっと良い。
それを一人でやろうとしたのが間違いだ。

誰かにその思いを話そうとせず、不器用に自分の誠意を示そうと、必死になりすぎた。
今までも、自分のことは冷たい人間だと感じていて、ずっと人にそんな思ったことを話すなんてしようとしてこなかった。
たぶん、態度や行動で示すには、限界があった。

他人には自分の思いは分からない。
きっと伝えられないし、分かってもらえない。

そんな風にどこかひねくれて考えていたところもある。まだ伝えてもいないし、話してもいないのに、以前の拒絶された経験と向き合えなくて、結局、話せずに、打ち明けられずにいたままだった。

きっとそれも大きい。
それに、態度や行動にこだわるあまり、
他人の行動が目について仕方なくなっていった。
なんてあの人たちは誠意がないのだろう。
同じ、仲間たちにいつしかそう思うようになっていった。結局口先だけで、なにもしようとしない、人は傷つけるし、軽率な行動はとる。

人のことばかりが目について非難ばかりするようになっていった。
そんな自分が結局は、彼らと同じ口先だけになってしまっていることにも気づかずに。

今の部活の環境そのものじゃないか。
僕の思ったこと自体はそう悪いだけのものじゃないだろう。だけれど、僕のしてきたことは、結局口先だけの、独り善がりの理想だった。

本当は卒業する前に、誰かに打ち明けて、それを行動に移すべきだったのかもしれないが、今ではもう遅い。
僕はやっぱり自分だけがこの先を見据えて行動しているのだと、やっぱり独り善がりになりすぎていた。

その偽善を押し通した結果が、今の現実だ。

誰かに話してみたら良かったのかもしれない。
ただただ、行動と態度で示すだけではなく、なぜそうするのか、話してみたら…。

しかし、それがダメだったからこそ
独り善がりにならざるを得なかったところもある。

4年間の重みの感じ方なんて人それぞれだ。
僕は重いと言うが、他の人はそう思わないかもしれない。別に重さなんて意識していない人が多数派かもしれない。

それすら分かっていないのに、
自分で勝手に重いはずだ、と決め込んで
行動していたのもまずかった。

つくづく、空回りしていた。
自分で架空のニーズを作り出して、そのありもしない、かすりもしない自分だけのニーズに応えようとしていた。

独善的だ。それに、迷惑なだけだっただろう。

後輩ちゃんはそんな状況で、どうすればいいかを、僕に問いてきたが、彼女を慰めるばかりでその時は答えてやれなかった。

自分の思いが空回っていたのは僕も同じだ。

思いは大切だが、それも行きすぎれば自己満足だけを追求することになってしまう。

4年間で、自分が振り返ったときに楽しくなかった、と思い出すのが虚しくなることが嫌だった。

それを他人にも押し付けすぎた。
別に楽しいかどうかは置いておいて、
部活にそこまでの重きを置いてない人だっている。

そりゃ、楽しくやれればいいだろうが、
それを絶対にしてしまったら、もしそうじゃなかったら?そうでないこともきっとある、別に部活じゃなくても、人生でも、絶対に楽しくなくてはならないと決め込んでいたら、果たしてそれは本当に楽しいだろうか?

自分の思いはそれとして
それが叶わないこともあっていい。
自分の意思は持っておくけれど
それが絶対に叶わなくてはならないということはない。

あまりにもそれを強く望みすぎると
きっと苦しくなるし空回りする。

自分の意思をしっかり持っておきながら
それが叶わないこともある現実をしっかり
受け止める。それは、なかなか、器用なことなのかもしれない。

後輩ちゃんも、それができなくて
自分を抑えて、意思を持たずに耐えて過ごすか
自分の意思を貫くか、その2択を自分に強いていた。

別に行動に移せなかったとしても
自分の意思を持ち続けることはできる。
しかし、それが叶わない現実が目の前にあると、自分の意思を否定しているように感じて焦るのだろうね。

自分は自分の態度や行動で示すポリシーがある。
でも時にはそれを曲げる必要もある。
それは、決して意思を曲げることではない。

ただ、周りとの無意味な衝突や争いを避けるために必要になることもあるのだ。人はそれぞれ、色んなタイプの人間がいる、むしろ、自分と同じタイプの人間の方がきっと少ないだろう。

同じ場所で、同じ時間を過ごし、一緒にやっていくのなら、共存のために一旦ポリシーやこだわりを外すことは、きっと、信念や意思を曲げることにはならないはずだ。

お互いの自己主張は、互いに道を譲り合ったあと、いくらでも論議すればいいし、互いの違いを理解できるまで話し合えば良い。

でも、その前からこだわりやポリシー、信念のために突っぱねてしまえば、分かり合えることも分かりあえない。話が始まる前に終わってしまう。

その器用さのことを、世渡り上手とか、コミュケーション能力だとか、世の中は揶揄しているのかもしれない。

それなら僕の語っていた正しさはひとまずおいて、必ずしも自分の行動の正しさが現実にはならないことも理解する必要がある。

その上で、自分の良さとしての
態度や行動で示すことを、差し込んでいけば良い。

それにこだわりすぎれば
求めていない人まで巻き込んでしまう。

そうまでして
自分の正しさを僕は追求してはいないし
それは目的ではない。

それを理解していなければまた同じことをきっと
この後も繰り返すことになるだろう。