優しいホモたち

この辺にぃ、急に虚しさを感じる人たち、来てるらしいっすよ!

何故と問う

なんでそんなことをする必要があるの?

すっかり忘れてしまっていた。
後輩ちゃんにはいつも、「面倒くさい」とヤジを飛ばされる。僕は、後輩ちゃんほど頭の回転がよろしくないから、何故なのかを説明してもらわないと分からないのだ。

その意図と目的を説明してほしい。

何故そうするのかに至った考えを聞かせてほしい。
僕は、そんなことする必要はないと思うけど、どうしてそんなことをする理由があるの?何かあるんでしょ?大切な気持ちや思いや、その動機が。

僕はあるよ。

辛いだけの思い出を振り返るのが、本当に虚しかった。だから、後から入ってくる子達には、そんな思いさせたくない。
だから面倒も見るし、手もかけるし、環境に働きかける。後輩たちの笑顔が見たい。辛いだけの思い出にさせてしまいたくない。

その気持ちがあるから、僕は種を蒔く。
良い場所とは何か?笑顔とはなにか?嬉しいと思うのは何故なのか?
何故を問う。そして、行動にうつす。
まず、しっかりと、今日の予定を一人一人に伝える。彼らの調子を見ながら、顔を合わせるときには彼らの進度を確認して、不安がっているなら、怖くなんかないさと肩を持つ。同じ目線で、彼女らの不安に向き合うこと。
そして、場合によっては、その不安は組織の歪みから発生してることもある。だったら、組織の改善を図る。無理させてはいないか、スケジュールに無理があるのではないか?我慢させてはいないか?一人が辛いのではなく、複数の子達が、同じように無理を強いられていないか?

人に優しくあるように。

僕が優しくしてほしかったから。それも大きい。
だけど、僕が思う“優しさ”と、彼女らが考える“優しさ”はそれぞれ違う。例えば、環境で言うなら、部活の日数が多すぎるとか、人によってはバイトと部活と勉学とスケジューリングがうまくいっていないこともある。
それなら、一旦、ここは部活なんぞいいから、お前の本分を頑張れ、帰ってくる場所は俺もみんなも、とっといてやる。応援してると、行動で示す。
そうすれば、安心して休んだり、帰ってこれるし、罪悪感なく、一旦スケジューリングの再調整に取り組める。部活に不安を残したまま、別の自分の日程に向かわなくてすむ。

そうすれば、帰ってきたとき安心する。
僕は、また戻ってきて嬉しいと、言葉にすることなく、お前の席はここにあるのだと、席を用意してやる。

意図と目的があるから
僕は彼女たちにそうしてきた。

何故と問うことは
その、信念を問うことだ。

それについて後輩ちゃんは、先輩が何故と問うそのやり方は回りくどすぎるから、分かりにくいのだと指摘する。
人と関わりたいように見えない。
でも、先輩にはちゃんと気持ちと思いがあるのは私は分かりますよという愛を込めて、彼女も僕に「めんどうくさい」と言う。

どういうつもりがあってそうしたんだ?

そういう意味で僕は何故と問う。
漠然とした空虚な問いではない。

僕は人を愛しているし、大切にしたいからこそ、どういうつもりなんだ?そんなやり方をしたところで、どう僕たちが、自分達が、安心して過ごせるようになるの?自分達に優しい組織作りができるの?

そう、問いている。

僕にはその思いがある。じゃああなたは?

その何故がないのに、どうして、人のための、自分のための、組織作りになる?知らないうちにそのことを問わなくなり、仕組みに呑み込まれてしまえば、あっという間に過ごしにくい場所になる。

ルールや決まりの前に、人が先だ。
僕たちがどうすれば、お互い気持ちよく共存できるのか、それぞれが違う人間同士が、問題や面倒、価値観の違いを内包したまま、それをどうやって受け入れていくのか。

それを考えるから、ルールや決まりになる。

何故を問わない人は、ルールや決まりが先になってしまう。自分がどうしたいのか、なんの必要があってそうしているのか、見失ってしまう。

人を後回しにすれば、そりゃ、ルールや決まりに振り回されるのは当然だろう。

僕は人が第一だ。
辛いだけの思い出、嫌な思い出ばかりの過去が僕をそう突き動かしてくれる。
何故を問うのも、あんなに辛い目に誰もが遭ってしまうことがあるからだ。組織の方向性や、自身の選択によって。

辛いだけにはさせたくない。
辛いことがあっても、でも、いいや。辛いことだけじゃなかった。良いこともあったって、その実感は何よりも救いになる。

だから僕は何故と問う。

どういうつもりで、そうしたんですか。