中学時代から感じた違和感
24歳、ひねくれものです。
中学くらいまではタツマイリ村みたいに、みんなのんきに過ごしてた。友達も“自然に”できたし、気づいたら一緒にゲームして、鬼ごっこして、ちゃんばらして遊んでた。
子供は遊ぶのが仕事だルルォ?!
僕は違います(全ギレ)
中学生で鬼ごっこ?これマジ?
っていう兄貴姉貴たちももちろんいると思うんだけど、こんな虚しさいっぱいのブログ見てくれてるくらいだし、多少はね?(失礼)
あの時が幸せだった、とかじゃなくて。
あの時が漠然ともう続きはしないのだと感じたのが、受験が差し迫ってきたとき。
あの時の僕はなぜ受験するのかも、なぜ高校へ行くのかも、なぜ働くのかも、知らなかった。分からなかった。
アホの子丸出しですね。
なんなら、なぜ自分が中学に入ったのかも、義務教育だから、それ以上の理由は理解できなかった。
それでも、ひしひし感じるあの時の違和感は今なら分かる。みんな、働くことと将来の暮らしとが頭のなかでリンクし始めていた、働くこと=お金=将来、という図式を理解し始めていたんだと、今の僕なら説明します。
そしてそこに疑問を感じていた。
なんで?
さっきまでくだらない遊びをして一緒に楽しんでいたのに、真面目な顔なんかしちゃってどうしたの?働く?働くってなに?なんなの?これから僕どうなるの?
言い知れぬ不安、漠然とした違和感をまだ言葉で説明できるほど頭がよろしくなかった。今でもよくバグを起こす頭ですが(半ギレ)
みんなが変わったのではなく、僕が残ってしまっただけ。
みんなは変わってなんかいない。時期が来たから、あらかじめそうなるように、教育されていたから、そうしただけ。
催眠ボイスのキーワードみたいだね。お前の身体も頭も「受験」という言葉を聞いただけですっかりできあがっちまうんだぜ?(催眠音声)
その受験に向かっていく彼らを見て中学生の僕でも思ったのでした、
「なんかロボットみたい」
それからはロボットなんかと仲良くするものか、自分は自分だ、等と言いつつ他に手立てを見つけることができずにずるずると高校、ついで大学まで受験し、その“やりたいこと”を見つけて“ロボットじゃないことを証明すること”にずっとこだわり続けることになるのでした。
今でもそれは続いてます。
よりいっそう、あの時よりもロボットとして出来上がった人たちを見ながら、自分は違うと、あの時の僕の違和感がまだ堕ちきらずに訴える。
暴れると痛いぞぉ~?
堕ちろ!
もがけばもがくほど、貧乏になっていくのに、それでもロボットになりたくないの?
まだロボットは嫌なの?いいかげん認めたら?
もう楽になりなよ。もう疲れたでしょ。
チカレタ…。ほんとマジで疲れましたよ、やめたくなりますよ、人生。だけど、どんなに辛くてもロボットになるよりましだよ!ペッ!
そんなもん、こちとら覚悟してんだ。
友達も、家族も、親友も、恋人もみんな、そっちに行っちゃった。自分だけ強情張って何してるんだ、今さら引き返せないだけじゃないのか?
あいにく、それをみんながおすすめし始めた頃からどうも、ダメみたいです。
ロボットにもなれなかったし、自分の道も進めずに、中途半端。
その中途半端なおかげで、ロボットにならずにはすんだものの、またまた中途半端なおかげで、中途半端に苦しんで。
だから、時間が必要だと結論付けたのです。
僕のような、性能的にはオールラウンダー、悪く言えば器用貧乏という特徴のない仕上がりなタイプの人間には時間が必要。
でも、
大器晩成だから(震え声)
じゃ負け惜しみだ。悔しくないの?ロボットに煽られて。
ロボットにも、自分にもなれなかった人間のクズだって罵られて。
だから80年フルに使って見たけりゃ見せてやるよ!
たとえ最後まで咲くことがない花だとしてもそれもまた乙なものだルルォ?
泥のなかにも70年、竹の花も70年、一度も咲かずば、なおのこと見てみたくなる。
長いことかけて、気の遠くなるような時間をかけたのに、結局は咲かなかったのなら、どんなに美しい花が咲くのか、ますます見てみたくなった。