ゆるい家族
僕は今まで、たくさん誰かに助けてもらってきました。
引っ張りあげてもらって、頼ってきました。
大学オケでも、それから以前までやっていた焼肉屋のバイトでもみんながいて、お父さん的な役割、お母さん的な役割、兄弟姉妹みたいな立場、じいちゃんばあちゃんみたいな立場と、いろんな属性の人たちがそこで共存していました。
良い意味で問題解決の逃げ場がたくさんありました。お父さんに厳しく叱られたりして、言ってることは分かるけど、そんなに強く言わなくたっていいじゃん!とふてくされてるときには、おじいちゃん、おばあちゃん的な人のところへ一旦逃げて、お父さんはこういうことが言いたかったんじゃないの?と相談なりして、自分なりの解決と納得をして、また戻っていく。
そんな家族みたいなことをやっていました。
僕は叱られることの多いダメ長男みたいな立場でしたが、それでもやるときはやってみせることができた・・・はずです。部活では2ndのパートリーダーのお仕事を3年生のときに引き受けることになって、みんなに支えられながら、最初はこんなのもうできない、俺にはもう向いてないよこれ、って弱音ばっかり吐いていたのに、最後には後輩たちから慕われ、同期からは成長したものだ、君は変わったねと褒められて最後の演奏会を終えることが出来たんです。
たくさん頼ってました。でも、これはお願い、よろしくねと、頼られてもいました。
みんなでひとつのことをやっていたから、チームだったんです。
出来ない子に、出来た!と思わせてやるために出来る人が進んで花を持たせてやるような、そういうチームに最終的にはなっていました。
合奏中に「なんだよ、俺も案外できるじゃん?」みたいに花を持たせておだてて調子に乗らせておいて、難しいパッセージや、あえてそいつが練習不足だと分かっている点をつつくみたいな、愛のある意地悪なんかもやりあったりして、お互いの成長を望みあっていました。
みんな君の一生懸命の努力を見てるし、努力していないところもちゃんと見てんだからね、と。
一生懸命練習してくると、必ずそこで花を持たしてくれるんです。じゃあ、一人弾きしようか?とか、絶対自信のあるところを一人弾きさせたりして。場慣れさせてあげたりする。みんなの前でうまく弾けると自信になるから。音も綺麗になるから。
逆に、絶対弾けないよって自信のないところは何度もみんなで弾かせておいて、やぶに隠れたって練習不足は見抜いてるからな?という意味をこめて、指揮者が「じゃあもう一回やってみようか?」と煽ります。奏者がごめんなさい、ちゃんと練習してきますから許してくださいまでが1セット。真面目に練習してる人たちからも煽られます。こっちは真面目にやってきてんだけどー?と茶化されます。それでも許されるのは、ちゃんと努力してきてるから。それにみんな、部活は楽しむものだからって分かってるからです。
こうしてみんなで上手になっていくのはとても楽しかった。
楽しむってどういうことなの?っていうのを僕は経験で分かってる。
一生懸命やって、出来ない人に花を持たせてやって、出来ないところはみんなで煽りあって、チクショーってやってまた頑張る。出来る人は、出来ない人を見て、蹴落とすのではなく、引っ張ってあげる。こんなこともできないんじゃやってらんないよーと愛をこめて茶化す。みんなでレベルを高くして、良い演奏がしたいねって意味で言うんです。
弱音を吐きたいときはそれをしっかり話して、後に持ち越さない。
問題があったときにはみんなで考えて意見をひとりひとり聞いてまとめて結論を出す。
別にこれは演奏に限ったことじゃなくて、バイトでもそうでした。
仕事、お勤めするという経験はしたことがないけれど、人間のやることだからたぶん同じことだと思うのですが、どうでしょう。
少なくとも僕はこういう生き方が好きみたいです。
何か頑張っていても努力していても、苦にならない。
こういうゆるいつながりで、今ここでできることを最大限に活かしてやっていく。悩んだら助けてくれる仲間がいる。行き詰ったら、一緒に先を目指す仲間がいる。
そして何より恵まれていたのは、うまく出来る人からまったく出来ない人まで、人間のバランスが良い感じにばらけていたことです。出来ない人ばかりでもないし、出来る人ばかりでもなく。
だから組織全体としてはうまくまとまっていた。部活でもバイトでもそうでした。
ゆるーくまとまっていた。だからそれなりに経験のある人は経験の無い人の面倒を見てやるくらいの余裕があり、経験の無い人は、僕もそこに含まれていましたが、一生懸命取り組むとそれが目に見えて結果に出てきやすい。経験者がうまーくおだててくれてる、お膳立てしてくれてるからです。
結局、出来る人たちが多すぎて強すぎると、弱者を甘く見るんです。見てしまいやすい。放置してしまいやすいんです。結果、出来ない人はそのままで、どこか他人事な雰囲気のままでいてしまう「出来ない子」が出てきます。仕事でもこんなこと、ありそうです。
で、今度は出来ない人たちが多すぎると、今度は組織として成り立たない。
向上心や、努力をもってしても全体としていまいちそれが結果につながらない。つながりにくい。だから途中で諦めてしまいやすい。こんなのでうまくいくのかなあって現実を客観視できる人ほど、不安になってしまいやすい環境だと、経験上思います。
つまり僕の言う「ゆるいつながり」というのは
1.その分野について長年の経験者~まったくの未経験者までがバランスよく混在する
2.なおかつ経験者が実際の業務が忙しすぎて手が回らないほど余裕がない、という状況が回避できている。
3.まったくの未経験者が素直で、学ぶ姿勢があり、自分なりに一生懸命にやっていること
この状況が再現できれば、間違いなく楽しい。少なくとも僕は楽しい。
この環境が”当たる”まで何度も何度も環境を変えてもいいし、いっそのこと、この環境を自分で創ってみるという方向に努力をシフトしてみてもいいのではないだろうか?
なんにしろこのままではだらだらと時間が過ぎていくだけです。
今までの数々の僕の所業を振り返るにそれは火を見るより明らかです。
バイオリンの修行だってあと何年やることになる?どこで、何年続けることができるかもわからないのに、宛もなくひたすらに努力をし続ける必要というのも、時と場合によっては確かにあるのかもしれないけれど、このままじゃ浮かび上がれない。僕の直感はそう告げているし、何かするなら今しかないじゃないか。
今ならまだ大失敗しても、生きていくくらいならどうにでもなる。
ならやってみない手は無い。
楽しい空間を創る。そのための条件はもう分かっているんだから、やってみない手は無い。
・・・ん~、わくわくしますね。
学校という枠組みさえあればうまくいくか?って、んなもの、トップが何を考えてるかによるでしょうよ。お金儲けになればいいやとか、学生の就職率がとか、何を念頭において学校を経営してるか、そのトップの手腕によるでしょうよ。
どうも僕の今通っている学校と、僕の理念というのは噛み合ってない。
学校がつまらないなら、着々と、どうしたら楽しく作業できるか、そこを考えようじゃないか。出来ない人同士、初心者同士でち~さな教室に引きこもって週5日作業するのは、やっぱり変だよ。僕にとってはそれは妙に感じる。
この小さな違和感と直感が、また逃げるための言い訳なのか
もっと楽しくやりたい!人生楽しく生きたいよ!という切な願いなのか
その答えは、未来になってみて、そこに実現しているものが答えになるでしょな。
でも変だよ。職人ならなおさら、技術が命の仕事なのに週5日もある貴重な時間を、出来ない人同士、狭苦しい空間でひたすら作業するって非効率的だよ、どう考えてもさ。