優しいホモたち

この辺にぃ、急に虚しさを感じる人たち、来てるらしいっすよ!

僕が教わったこと

僕が先生たち、信頼する大人・・・

本当の親のように慕ってきた大人から教わったことは、

 

わたしはきみを愛している

 

ただそれだけです。僕の短所だって彼らは知ってます。

僕が学習スピードがそんなに速くはなく、ゆっくりと全体を理解しようとするから、処理に時間がかかってしまうことを知っていますし、見抜いてくれています。だから僕に遅い、とは言わない。

その代わり、ゆっくり、落ち着いて、リラックスして脳みそが一番働く状態になるように、環境を整えることをすすめてくれました。まずは静かな場所で、どの先生たちも、わたしは敵ではないよ。笑いかけてくれます。決して声を荒げることなく、僕が一番集中できるように環境を作るのを手伝ってくれる。

 

その態度や仕草で、大丈夫。君の事は良く分かっているからゆっくりやっていこう。

そう語りかけてくれているように僕には見えるし、安心できる。

この人は敵じゃない。僕のためを思ってやってくれてるって信用できる。

 

そして落ち着いた環境で勉強やレッスンが進みます。こうしてやるんだよ、理屈はこうなんだよと言われたことが頭の中にスムーズに入ってきます。その時、頭の中にある既存の知識と今新しく教わっている知識がすごく飛び交っていくのが自分でも分かります。するとそれらの知識を関連付ければ、新しく疑問が生まれてくる。気付いたら質問してます。それってどういうこと?つまりこういうことなんですか?そうなると、今のこの理屈はこういうことに使えるってことですか?まさにこども特有の質問攻めになります。

 

僕にとって何かものを習い、教わるといえばこれです。

この環境を整えて学ぶのが僕にとって一番いい学びの方法です。

 

だから普通の学校は・・・

僕にとってはあまり良い環境ではないことが多い。

僕は学校といえば学ぶ場所。こうしてレッスンしたり、質問したりして、自分の知識理解を深めて、世界の事を、身の回りの事を知っていくこと。でもたいていの人は、学校へ学びにだけ、来ているわけじゃない。友達に会うためだったり、話をするためだったり、コミュニケーションの場として利用している人のほうがたぶん多いかなあとざっと見た感じ、経験則でしかないけどそう思います。

 

でもぼくから言わせれば、コミュニケーションって、先生へ質問攻めにする「なぜ?どうして?」のやり取りとか、先生が僕の頭のこと、理解のスピードを知っているからこそ、あえて鍛えるために早いラーニング法を意図的に利用したりして、それらのやり取りを通じて成長していく過程の中に、十分コミュニケーションが含まれてる。

少なくとも僕にとっては、意図的におしゃべりとか友達を作るとかそういうことなんかする必要が無くて、こうして自分の理解を追求していくことをすれば自然と会話になった。先生だって僕に勉強法を教えていく中で、僕独特の理解の仕方があることを知っていくし、その「特有の世界観」が分かっていくからこそ、人の好みや、絶対に嫌なこととか、その人の魅力とかが見えてくるものだなあと今では思っています。

 

で、話を元に戻しますと、僕はとっても理解が遅い。全体を把握しようとしすぎて、処理速度が追いつかない。ほら、すごい大きい画像をあまりスペックの高くないコンピュータで表示しようとすると、描画速度が追いつかなくなるのと、ちょうど似ています。

 

世界って大きいです。たったひとつの学問でも、それは常に世界という大きなこの未知にあふれたよくわからない現実のことを背景にして、語られています。何かを理解しようとし、分かろうとしてきた。僕も同じです。ここに生まれて、わけも分からず、知らないことばかりで、いったいここが何なのか。人の世とは何なのか、人間が作ってきたものは何なのか、どんなルールや仕組みがあったのか、今は何をしているのか、本当に複雑怪奇です。覚えようとすると脳みそがもう落ちます。しかし知りたい。だからゆっくり落ちついて、脳みそをうまく冷やしながら、処理速度の限界ぎりぎりを使ってやるんです。

そのために他の雑多な情報がそこで入ってきてしまうと脳みそはエラーを吐きます。容量を超えて、処理速度が一時的にがくっと下がってしまう。たとえば、友達のひそひそ声とか、外からの物音、喧騒。それから他人の髪をかきあげる仕草だとか、目線の動きとか。少し下品なところで言えば、魅惑的な女性のあちらこちらの体つきとか。

 

あんまりいろんなところから情報がやってきていると集中が分散してしまう。それをコントロールできればいいけれど、それよりも情報をひとつにさせる。他の情報を遮断できる環境を作ったほうが脳みその負担、ストレス、負荷的にもそれが一番いい。

 

だから僕はいつでも自分第一で、自分にとってより良い環境を作って、自分の能力がもっとも活かせるように、魅力を伸ばせるように、つまりみんなと協力して共存できるようにしてきたつもりです。

 

でもいつからか。

辛いこと、苦しいことを経てその考えにも確信が持てなくなっていった。

 

そして、後輩ちゃんはそのことを言っていたのだと今になって思うのです。

僕が「どうしたらいいんですか」という問いに答えられなかったとき。

僕はすっかり自分が何をしたかったのか忘れてしまっていた。生きていくために己を捨てようとしていたからです。自分に合わせた環境を作っていく、そしてもともと持っていたような魅力を、能力を伸ばしていく。それが現実を知れば知るほど、夢にしか思えなくなり、自信が持てなくなっていた。

 

でも、夢ではないんじゃないかな。

だって、この頭はそれ以上の処理速度を目指すより、時間をかけて集中させてやれる環境を作れば本当にうまく働いてくれるし、そのときの僕の顔ってちゃんと和らいでいて、柔らかな表情になってる。

 

最近は、それじゃダメだ。もっと強くならないと。それじゃ甘い、生きていけないって、社会を目の前にして、焦っていたのかもしれません。こんな生き方、できっこないんじゃないのかって。

どんどん表情は固くなるし、怖い顔してるし、悲しそうで苦しそうな顔になってて。

 

先生たちは僕の可能性を信じてくれた。

僕自身が今度は、僕を信じずにいてどうする。

 

時間と未来を作る。僕の特性に合わせてチューニングして、僕の持っている能力と、素質、魅力を伸ばすのはきっと間違いなんかじゃない。

もういい!もうたくさんだ!俺は自分で勉強するぞ!

 

もうすぐ学校に入ってから一ヶ月が経ちますが・・・。

自分でやれることばっかりなんですけど、どういうことなんですかね。

すっごく時間の無駄。お金ももったいない。

 

時間とお金を無駄にかける必要はない!

 

というか、うん百万も払うのはいかんよ。

こんな高いお金を必要なんか一切なくて・・・

工房に勉強しに行きたいとひとつアポをとりまくってみたらいいんですよ。

 

実際使ってる道具が分からないなら、実際お仕事してる人に聞きに行けばいいじゃない!

はい。まずですね、今のご時勢、"道具の名前”と”メーカー"さえわかればたいていのお品物はお取り寄せできます。比較的安価で、ネットで。海外の販売者とも、かるーいメールのやり取りで今時、取引できるそうで。

 

考えてみたらそうだよね。

 

僕の目下の疑問は、バイオリンに使う、木材や、その他カンナや金属、付属品パーツといったものはどこから仕入れているのか?ということでした。うん、確かにさ、その事情に深く突っ込んでいくのは確かに勇気がいるかもしれない。わざわざど素人で、どこの馬の骨かも分からない職人希望の怪しい青年がやってきたところで、確かにまず見学も、インタビューも断られるだろうって思うのは間違いではないぞよ。

でも「やだよ」って言われたとしても、そこをなんとかってただで教えてもらえたら、それ、儲けもんじゃないですか。無礼な気がするなら修理や調整やら、適当にアクセサリ系のフィッティングパーツとか、相応の対価を支払っておいて、で、ちょっとだけでも教えてくれませんかね?と筋を通せば良いのでは?

 

まあとにかく知りたい情報はすでに手に入れました。

 

まず木材は通販で海外から仕入れることも出来るし、池袋とかそこらにも木材の卸屋があるとのこと。普通に一般客を相手に商売してくれています。

じゃどんな木材使うの?ってそんなもん本に書いてあるよね。バイオリンの制作方法さえ、本にちゃーんと記述されています。学校に行くお金があるなら、まえもってこれらの情報だけ知っておいて、生活と仕入れ料金、つまり自分の材料費、勉強料として使ったほうが時間もお金もずーっと有意義だということに今気付く。時間も自由だから、工房見学も、講演会も、美術館も行き放題ですよ。それに比べて学校は週5日、朝から夕方までの時間の制約が欠かさずあります。その間何をするかというと、教室に閉じ込められて、実際の工房で使えるかどうかも自分で判断できず、工房へ行く暇もなく、就職活動だ!レポートだ!コミュニケーションだ!とか、もうこれ何がしたいのかわかりませんね?技術を習得してほしいのか、就職率を上げたいのか、どっちつかずじゃないのかね。学生の使える時間だって限られてるわけだし。そこに高いお金払う価値がありますか?って、僕は無いと思う。

 

で、他のカンナとか道具類は?

これ学校の支給品も職人の先生も通販ですってよ、奥さん。

そうだよね。今時通販があるもんね。

海外からも気軽にお取り寄せできる、便利な時代になったもんです。

 

はい。なーのーでー。サクセス計画を変更だ。

時間も美的感覚も有意義に使って、有意義に養いたい。

 

支給品をもらって、情報をおおよそ聞き出したら後は学校の必要は無い。

各地の工房も修理を頼みがてら、ちょっとお茶でも飲んで答えられる程度の情報は引き出せる。なんならはっきりと情報がほしいと、勉強のために見学させてほしいとか交渉してみたらいい。断れることもあるかもしんないけど、学生のためならとかで受けてくれるところもあるかもしれない。だいたいそういうような能力のほうが、社会に出てから必要な能力なんじゃないですかね?

 

実際の工房にお邪魔して、実際の仕事で使う道具類を、今回もらった支給品を元に照らし合わせて仕立て方を真似る。見たこと無い道具があったら何に使うのか、何のための道具なのか聞いて、場合によっては取り入れてみる。

 

とにかく学校はもういい。もうたくさんです。

例の夢はもたない方がっておっしゃてた先輩が、「専門学校は意味が無い」といっていた理由が良く分かります。自分でできることばっかりじゃないか。

というか「教わろうとするだけ」の姿勢だった自分が恥ずかしい。砥石の使い方とか、刃物の研ぎ方とか。鏡面がどうのこうのって話があるんですけど、それって刃物研ぎのことを調べればすぐ出てくるじゃないか。なんなら研ぎ職人さんにお金払ってでも、研ぎ方を習えば良いじゃない。ノミでもなんでもさ。必要な道具とかだってそこで習えば良いじゃない。学校へ行けば教えてもらえる、なんて甘い甘い。もっと頭を使え。そしてそっちのほうがきっと絶対面白いし、ためになるよね。

わざわざ自分の貴重なお金と自由な時間をさいてまでこういう専門学校に行く必要はないと思うよ、僕は。

 

その時間とお金があるんだったら、時間は自由なんだから、いつでもアポがとれるんだし、その自由時間だって何もしなければどうにもならない時間になっちゃんうんだしさ。

 

などと不満が爆発してもうやりきれない僕でした。ある程度情報収集が終わったら、学校は辞めて、個人活動に自由な時間と、学校に使うはずだったお金を使おうと思います。

このままじゃ先輩の言う「夢」が消えてしまう。なら別の手段をとるまでです。

僕は生きてその夢が夢なんぞではないと証明してやりますとも。

 

それがうまくいくかどうかは・・・僕しだい。どうせ学校にいたって結局は自分しだいでごぜーますよ。いざ、この身とこの頭とでどこまでやれるか、試してやろうじゃないか。

後輩ちゃんが「せんぱぁい」と呼ぶ理由

せんぱぁーい

今日、教室に居るのが息苦しくて、タバコルームへ逃げ出す途中で、同じ学科の先輩に会ったときのこと。

ウキウキが消えてしまいそうで、僕は、もっとこのボロボロカンナとか、お粗末な所業の数々がどうしたらもっとよくなるのか。それをひたすら考えたい。

そんなとき、ふと、ハイライトを愛煙してる先輩に廊下で会った。

せんぱぁい!

どうやってカンナの裏側うまくやってんですか?
普通は何日くらいかかるんですかぁ?

後輩ちゃんの常套手段を応用して先輩に問う。
僕、もっとうまくなりたいんです!楽しくやりたいんですよ!
後輩ちゃんが僕に「せんぱぁい」と声をかけるとき、彼女もそういう気持ちだったのだろうか?
同年代や、今の自分のやり方とか、もっとどうしたらうまくやれるのかなぁって、考えたとき、素直に頼ってくるあの感じ。

先輩は笑って答えてくれた。
何日もかかってる人もいたよ、こういう道具を使ったりしてたよと。

…僕も後輩ちゃんにとって、そういう先輩であれたんだろうか。答えを求めて、というよりは、どうやってうまくやったんですか?どうやって乗り越えたんですか?そう聞くことで、自分が励まされる。励ましてもらいたくて、せんぱぁい、と問う。

タバコルームへ行くと、別の学科の先生がいた。
以前会ったことがある、面倒見の良さそうな、バイオリンの修理や製作の経験のある先生だ。

火がないことに気づいて、先生を頼る。

「先生、もしよかったら、火を貸してくれませんか?」

先生は笑ってどうぞどうぞ。もちろん、とライターを貸してくれる。

お礼を言ったあと、先生から今バイオリン科では何をしてるの?と聞かれ、すかさずカンナのことを逆に聞き返す。
今、カンナの裏を平面出してて…ぼこぼこで…

すると先生は答えてくれた。
最終的には、仕事で使うカンナも、途中ではその平面直さないよ(笑)と。落としてもそのまま使ったりするし、でも!最初は頑張りな、最初はね?と。

はい!と元気よく答える僕。ありがとうございます!と自然と顔が笑ってた。安心したからだ。

後輩ちゃんに「ありがとうございます!」って言われたときと同じ気持ちだ。

なんだかなぁ。
後輩ちゃんが、僕をいろんなことに誘ってくれたり、僕をちょくちょくからかいにくるのも、この、安心したからという気持ちからなのかな。

先輩と話してると楽しいんです!

って彼女は伝えてくれたことがある。
僕は…不安そうな君がどうしても放っておけなかっただけだ。今の僕みたいに、これからどうなっちゃうんだろう?みたいに、なんだか不安な気持ちってよくわかる。

新しい場所に、新しい環境、新しい関係に…。
将来のことに…。

そんなの心配する必要ないぜ?だってさ!

僕が過ごしてきた時間を語るのです。
大丈夫だったさって。
僕がさきほどのように、先生から「カンナなんて途中で直して使わないよ?」と言われたときみたいに。実際それで成り立ってるから心配なんかすんなよ!信じられないって言ったって、俺が生きた証拠じゃねえか!ってね。

あっ、なんだそっかあ。怖くないじゃん!

自信満々で生きてるその人の姿を見れば不安なんて吹き飛んでしまうものだ。

そうだ。

怖くなんかないよ、大丈夫だから。
その気持ちで、後輩ちゃんにはずっと接してた。

でも、今の僕はまた不安がいっぱいになってる。
受験を乗り越えたとき、大学を乗り越えたとき、これで大丈夫さ!と作戦を立てることが出来たけど、でも、社会を今度はどう生き抜こう?
これにはまだ答えを出せてない。

まだ、時間がいる。
そして、先輩として。後輩ちゃんとの関係が、今までと変わることを恐れてもいる。大丈夫さ!と示す側の立場から、今度は“共に並んで”大丈夫さ!と言い合う関係になる。

僕はまだ、社会を生き抜いたわけじゃない。
これからどうするか、どうしてるのか、その真っ最中だ。

その等身大の僕を見て後輩ちゃんはなんて思うかな。

なんて考えてみると、案外と変わらないと思う。
先輩が今さら情けない姿を見せたところで、留年はしてるし、授業はサボるし、社会へ反抗してるんだ!と言い張ったりと、散々なことをして見せていた僕のことを彼女はそばで見ている。

僕が言い訳ぎみに、
「そういう思春期の生徒も学校へ行けばいるかもしれないだろ!」

と言うと、彼女はきっぱりと
「そんな面倒くさい生徒嫌ですよ」

だから今の僕の姿を見たところで、代わり映えなく、相変わらず面倒くさいですね、先輩。みたいなことを言うだろう。

…この前もそうだったけど、後輩ちゃんってあっさりしてるんだよなぁ。そのわりに僕のあげたプレゼントとか大切に持ってたりして、そういうところが可愛いんだけど。

後輩ちゃんの方が大切なことをよく分かってるんだよね。僕は彼女と関わることで、そういうことを忘れずにいられてるなあと本当に思う。

後輩ちゃんも後輩ちゃんなりに、この鈍感な男に何か思うところがあるのかなあなんて。
今の僕は“後輩”としての立場を利用することで思う。

夢の先へ

毎日同じ場所へ
毎日同じことを

死んだような顔をしてやる。

おかしい。おかしいぞ。
バイオリン…
お前さんを家で作っていたときはあんなに楽しかったのに、ひとたび学校に入ってその仕組みのなかで作業していると、ものすごく楽しくない!

心が弾まない!
どうしてだ。

僕の先輩が大学1年の僕にボソッと本音を漏らして語ったことがあります。

夢は、見ない方がいいですよ。

僕の先輩は、やりたくもないことを続けるのが嫌だ、意味を感じない。そうして会社をやめて、やりたいことをやる道、バイオリンの修理人という仕事を選んだのです。

でも当時の僕にはその本当の意味は分かりようがなかったですね。
やりたいことをやったとしても、結局はやりたくないことで会社勤めしてたときと変わらないぞ、そういうことだったのでしょう。

やりたいとかやりたくないじゃなくて
そもそもの労働環境自体の問題、もしくは、働く側の、僕や先輩の見方の問題なんじゃないかと。

だからやりたいことをしたって、やりたくないことを続けたって、気持ちとか感覚的には変わらない。

先輩が、やりたいことをやれば働くのもきっと楽しいぞ!と当時浮き足立っていた僕にその事を伝えるために、短く一言で、「夢は持たない方がいい」とズバリ、的確にアドバイスをしてくれたのでしょう。かつて夢を持っていた同じ人間として。

僕は、やりたいことをやれたら仕事って面白いんじゃない?と思ってたけど、そうじゃない。やりたいことでも、やりたくないことでも、面白くしようとしなきゃ、面白くはならない。

やりたいことをやってさえいれば面白いかってそうとは限らない。

面白くなるのを待ってたら、そのまま人生なんか面白くないままたぶん終わっちゃうんじゃないかなぁ。

例えば後輩ちゃんと一緒にいると楽しいのだって、別に楽しくなるのを待ってるんじゃなくて、楽しいことを見つけるからだ。

たとえ後輩ちゃんとでさえも、ただ一緒に居たところで、たぶんこの前みたいに来た来ないだのとつまらない応酬をしてしまうだけ。

バイオリンを以前、自分だけで作っていたときも、自分で探す試行錯誤がとても面白くて、それで出来上がったものがたとえ、おんぼろでお粗末な出来でも、よっしゃできた!次はここが汚いから直すぞ!と。すごく楽しかったものです。ちっとも悪いだなんて思わない。

その先に、お客さんに出せるくらいの、技術があるんじゃないの?
その過程を通るから、楽しかった!ってうきうきが消えないまま仕事ができるようになるんじゃないの?

今の環境は…
確かに先輩の言った通り、夢なんて持たない方がいいです。
仕事とは、始めからその結果を求められることだと、大人は教えています。過程の通り方を教えもせず…。
というか大人だって分からないんじゃないですかね。
どんな道をとおっていけば、その「結果」を出せる人間になれるのか。せっかく結果を出せるようになっても、先輩みたいに「夢なんか持たない方がいい」って生きるようになっちゃうなら、そんなの、おかしいじゃないか。

だから、ウキウキを大切にしなよと人は言います。
でも、そうは言いつつ、それを大切にして生きることが出来ない。そうでしょ?身の回りに、ウキウキを消さないまま、生きてる大人の人っている?

僕は…その“ウキウキ”を目印に師匠を選んできました。
甘いと人は言うかもしれません。

でも、その気持ちを大切に出来ない場所では、辛いだけですよ。先輩と同じ、夢を持っていたのに、そんなもの持ってない方がよかったと語るようになっちゃう。

だからせめて僕は社会に抵抗…してきた。
でも、わざわざ反逆しても仕方ない。僕は敵です!ってアピールしてどうする。

だから今は、今度はせめて
僕の心の中のウキウキを保ちたい。
あの、おんぼろバイオリンを作ったときの楽しさの延長線上に仕事を…
先輩が持とうとするのをやめてしまった夢を、僕は諦めたくはない。

確かにね
社会や組織や学校や…そういうしがらみのなかで、自分勝手に自分の楽しみを追求するのは“間違ってる”のかもしれません。

でもその先に、あんたがたの求める「結果」ってやつがあるんならどうよ?
楽しみや、ウキウキの先にも、努力や忍耐以上の結果があるなら?試してみなきゃわかんないでしょ。

それに、この楽しみに従ってると間違いとかあってるとかじゃなくてね。
ただ伸びていくことだけが、本当に気持ちがいいのさ。

そういう気持ちよさが、仕事とは無関係だと思いますかい。

こういう気持ちよさが、人の気持ちよさにつながり、結局はそのいい気分ってのが広がっていくことになるんじゃないのかな。

その逆をやってるとさ。頑張って頑張って、努力してんのに、楽になるどころか、すごく苦しくなるんじゃないの。今すごくそう思うよ。

それに、そんなの悲しいよ、ね。

いたわり、ねぎらう

後輩ちゃんに今度どんな顔して会おう?

今日は作業道具のノミを仕立てていた。
でも僕の頭の中は、後輩ちゃんのことでいっぱいだ。

あーもう、なんでこんなに頭から離れてくれないんだ。

ノミを砥石に当てて平面を出しながら悶々とする。
作業に集中しつつ、ずっと頭のどこかに昨日のことがつっかえている。

いっそ怒ってくれたら楽なのに。
先輩!どうしてきてくれなかったんですか!と。

そうしたら僕はその理由を懇切丁寧に話して…
いやいやそれじゃ僕が楽になりたいだけじゃないか。

こうなるともうひたすらに情けない男である。

これでしばらく後輩ちゃんのご機嫌は斜めだろう。
彼女は普段、あっさりしてて面倒くさがりなくせに、こういうことになるとプラトニックで、急に乙女なことを言い始める。

というか、ピュア、なのだ。
お父さんが仕事で何かの発表会に来てやれず、娘からいつも来てくれなかった!と愛想をつかされるような気持ちだ。

また次なんて言って、どうせ来てくれないんでしょ!
今さら白々しく来てくれたって全然嬉しくないから。

みたいな。

ぐさりと心に刺さる。
そんな娘を喜ばしてやるには…

食べていけなくてすまなかったときちんと謝る。
だってそこにいてほしかったんだから、それを謝る

そして次に居てほしいと思う場面で、同じことを繰り返さない!

次…
次は12月の定期演奏会だ。
これが最後の発表会で、彼女たちが主役の大舞台。
ずいぶんと間が空いてしまうな…

それまでの間にちゃんと後輩ちゃんにその気持ちを伝えなくては。こいつはちゃんと次は来てくれるって思ってもらおう!
だいたい、そもそも僕は最後のその最後で彼女を思いっきり褒めちぎってやろうと、この前話したときから決めていたのだ。

だからって最後の最後まで、よくやったねとか言わず、労うこともあえてしないというのは、冷酷だと思われても仕方ない…。
僕がそういう生き方をしてきたからって、誰もがそういう風に最後の最後まで突っ張ったまま生きてるわけじゃない。

もう少し、合間合間に労うことをしてみよう。
それくらいしてもいいんじゃないのか?

確かに最終目標は定期演奏会を無事成功させることであって、今回の新歓がたとえその足掛かりなのが事実だとしても、成功は成功だ。そこまで息を抜かずに、走り続けろなんて、厳しすぎるんじゃないか。

うーん。

…自分のこと、そんなに厳しいと思ったことなかったし、大してよくやってないと思ってたんだけど、何だろう。すごいストイックなことをしてるじゃないか。

この調子で人のこと見てたらそりゃ、厳しいな。

後輩ちゃんにも、もっと優しい目で見れたら、今回みたいなことしなかったかもしれない。

だってあいつら、すんごい頑張ってる。
僕にだって労る気持ちがないわけじゃない。
むしろ、彼女らを信じてるからこそ、労ってあげたいからこそ、やりすぎた。

もうちょっと途中途中で、休憩ポイントを用意して息を抜けるところも必要なんだね。

…はー。なんだこの男は。
普通の人間はたいてい、息抜きを間に挟まないとへたれちゃうでしょうに。というか、僕がたびたび虚しくなっちゃってたのだって、そうやって無理させてからじゃないのか。

もう遅いけど、まだ遅すぎるわけじゃない。

後輩ちゃんのこと、もっと労ってあげよう。最後の最後まで、とか息苦しいことやってないで、彼女よくやってんだからさ。

でも彼女との関係が実は、怖かったのも事実だ。
こんなに人を想ったことなんてないし。
だから関係がなくならないようにって、願いすぎたのもあったのかも。
それで最後の最後までなんて、気合いいれちゃって空回りしてさ。後輩ちゃん、そんなところまで絶対望んでないでしょ。余計なお世話だってのさ。

だからちょっとちょっと、労る気持ちを持って、それを行動と態度で示してみよう。

そして本当の最後には褒めちぎってやるんだ。
よくやったな!って、思いきり頭を撫でてね。

大人になると忘れてしまうこと

後輩ちゃんに呼ばれて昨日は大学オケの新人歓迎演奏会に賛助として参加しました。

集まった新人たちは18人。

おおなんだ、すごく集まったじゃないか。
でもなぜだか僕の心は晴れやかではない。

終わったあと、後輩ちゃんに良かったねと帰り際に伝えたのです。
その時、僕は彼女に、冗談っぽく、

これも俺の助力のおかげってやつだな?

と茶化して言うと、

はいはいそうですねー

そして少しムカッとする僕。
そうですねーっておまえな、俺がどれだけ…。

お前そんな適当なこと言ってさ!

ここで僕自身、何か胸につっかえた気持ちがするけど、それが何か分からない。言葉に出来ない。
少し思案してるうちに後輩ちゃんがそこら辺にあったポストカードを僕になぜか押し付けてくる。

「何これ?これゴミじゃないの?」

あまりの突拍子のない行動にまた笑ってしまう。
さっきそこら辺から拾ったのを俺は見たぞ?
というか僕は君から「ありがとう」って聞きたいんだけど!

「ゴミじゃないですよ!」

じゃあなんだこれは。

「先輩、帰っちゃうんですかぁせっかく私が作った炊き込みご飯!食べていかないんですか?」

ああ帰るよ。俺が居る必要はないからね。
毎年新人歓迎演奏会のあとに、炊き込みご飯をうちの部活では作っている。

今気づく。
後輩ちゃんにありがとうと言ってもらうには、こんな押し付けがましい、俺がやってやったんだ、時間を割いてまで協力したんだという気持ちでは、決して彼女はありがとうなんて言わない。

いつのまにか忙しい毎日に流されて、こんな押し付けがましいことをしてしまっていた自分を恥ずかしく思う。
あのときにすぐ、胸に何かつっかえたような気持ちになったときすぐに気がつけなかったことにも。

そうだ。
後輩ちゃんにありがとうと言ってもらうのはそんなに難しいことではない。後輩ちゃん、ありがとう!美味しいよ!とか、作ってくれてありがとう!とか、こちらが本当に嬉しかったことを素直に告げれば、彼女はその素直な気持ちに反応して、うふふと笑って来てくれてありがとうございますと、いつも言ってくれていたじゃないか。

だから僕が俺の助力のおかげ…なんて言ったとき、彼女からありがとうという言葉が引き出せるわけがなかった。

僕は演奏会に君から呼ばれなければ参加するつもりじゃなかったんだという気持ちがあることに今気がつきます。

そんな風に手を貸してくれたってちっとも嬉しいわけがない。後輩ちゃんがそこまで見抜いていたかは分からないけれど、僕は彼女にありがとうと言ってもらいたいがために、彼女の笑顔が見たいがために、また間違ったことをしてしまった。

僕が「俺の助力のおかげ」と言い
後輩ちゃんはそれに対して「“私が”作った炊き込みご飯」と返す。

やっぱり見抜いているじゃないか。本人がどこまでそれを自覚してるかは知らないけれど、確実に感知してる。

大人になると忘れてしまうこと。

俺のおかげだ、俺がやってやったんだ。
気づかないうちに、苦労してると、苦労させられていると錯覚する。だから日々の言葉が変わっていく。思いに、ずーんと黒いものがたまっていく。

そんな思いがある限り
後輩ちゃんに僕は決してありがとうと言ってもらえはしない。

人からありがとうと言ってもらうにはどうしたら良いのか?ありがとうと言ってもらうには、その前にこちからありがとう、こんな風に良くしてくれて、ありがとうと、有り難かったこと、嬉しかったことを伝えることだ。
そして何より褒めることだ。

それを僕は、いつのまにか、ありがとうと感謝することを忘れていた。君に呼ばれたから、こうして演奏が出来て、また仲間に入れさせてもらって…
そこにありがとうと言わずして、こうして過ごさせてもらってることにありがとうと言わないで、どこにありがとうと言う?

後輩ちゃんは決して言葉にはしないけど、そういうことには人一倍敏感で、繊細な感覚を持っている。

そして、僕が胸につっかえるような気持ちがしたのもそのためだ。
ありがとうと言わないで、ありがとうと恩着せがましく言わせようとした。僕もムカッとしたが、むしろ彼女の方がムカッとしたのだ。

僕こそ、後輩ちゃんにはありがとうと言うことがたくさんある。
後輩ちゃんだけじゃない。
僕を助けてくれる、身の回りの人にもありがとうと言うことはたくさんある。

どうしてそんな簡単なことも分からなくなってしまうのか。

なぜ、恩着せがましくなってしまうのか。

心が鈍ってる。
そんな風に、やってやったんだなんて言われてまで、やってほしくないでしょ。
それならはじめからやらなくて良いし、協力を頼む側だって頼まなければよかったと思う。

それは感謝される方法が間違ってる。
出来ることを出来るだけやり、ありがとうと先に伝える。みんな、ありがとうと言われること、褒められることに飢えている。

僕もいつしか、望むばかりになっていた。

こうなるのが嫌で逃げ回っていたというのに。

ここに立ち向かわない限りは、ずーっと逃げ続けなくちゃいけなくなる。
もう逃げなくても良いだろう。

自分を褒めたり、叱ったりすること

飴と鞭。
甘やかしたり、叱ったり。

もう先生はついていないのだから、改めてその必要性を感じる。
自分を律する。褒めすぎてもいけないけど、自分で褒めてやれることはとても大切だ。何をしても自己評価が低いとガス欠、鬱気味になりやすい。

逆に褒めちぎりすぎれば今度は緊迫感が足りない、ほどよい緊張は大切だ。でも、それがいき過ぎれば、今度は自分を責めすぎる。ストレスをしょいこみすぎてダウンする。

いかに走り続けるかを考えると、日々のメンタル管理はとても大切。頭では分かってはいたのだが、いざ実際の生活に繰り出してみると、これがなかなか難しい。が、しかし、ゲームのハードモードのようで難易度としては面白い。

学校や社会に出るとなると、どうしても走り続ける必要性、つまりスタミナや気力をうまく保つ必要がある。
どう考えても休みたいときに休めた方が“効率的”だと思うけど、いまだにそれは一般的な考え方ではないようだから。

あえて効率を下げる“悪環境”の中でいかに得点を稼ぐか。つまり、今の僕で言うなら、いわゆる世間一般の社会と呼ばれる環境で、いかに元気を失わずに、スタミナ管理が出来るか?気力を保つ方法はないか?それを考える。

一種の縛りプレイにしか僕の目には見えない。
…しかし。逃げても逃げても、こいつはどうしても目の前に出てくるのでやはり、今の段階の僕が向き合うべき相手はこの社会であり、どうしても避けては通してくれないらしい。必須イベントのようだ。

ならば。

気力管理、スタミナ管理、そして自律。
ここを重点にして毎日を走っていることを意識しよう。

回復ポイント(休日とか昼寝タイムとか)、スタミナを奪う厄介なトラップや敵(悪意のある人や事故など)、逆に気力を回復させてくれるイベントや人間関係があったり(美味しい食べ物とか温泉とか旅行とか)。

システム的にはこれらの仕掛けを利用して、いかにスタミナを奪われず人生の終わりまで駆け抜けるか。スタミナが余ったらこの先を見越して温存してもいいし、人助けや思いやりとして誰かに分け与えればその分追加ポイントが稼げる。

善行の仕組みも取り入れてみちゃったりして。
スタミナが余ってなくても、逆にそんなときにきちんと判断して、分け与えるという高等テクニックもあるみたいですけどね…
それは直感で判断すれば分かるはず
今この人は、この瞬間に助けを必要としてるなら、助けたらいい。その時は身体が勝手に動いてることが多いもの。

ふう。
最近は少し疲れて気が抜けてしまっていた。
なんというか、頭が鈍って霧がかかって、目的がわからなくなる感じ。

だから、もう一度この方法で走る。
気合いを入れ直してもう一回!もう一回、です。