困ったときが勝負のしどころ
神様というのは往々にして困ることを起こしてくれる。
その後に起こる、困ったことに対して準備をさせるために。
今困ることによって、後々の采配がうまくいくように。
だったら最初から困ることなんか用意してくれなくていいのにと思うけど、
そうそう。これはゲームだから、山あり谷あり、演出ありき、なんですよね。
困ること=イベントっすね。
イベントは起点。その積み重ねでストーリーになっていく。
漫画を描くときも、漫画家ってのは「キャラクター」に没入することで、そのキャラ自身に物語を引っ張ってもらう。描いた物語がその人物らしい行動や言葉になっていく、という手法がとられることがあるみたいです。
だから没入するのにえらく集中力が必要だし、これが現実に引き戻されて途切れると、また戻るのに仕切りなおして、没入しなおさないといけない。
物語がなくていいのなら、初めからイベントなんていらないし、キャラクターも必要ない。
自分が何かする必要もないし、困る事だって要らない。お望みどおり、わざわざ困るようなことなんかしなくていい。
だけど、どうやら人生というのは物語らしい。
困るようなことが必ず起こる。望んでいないことも、必ず起こる。
人生というゲームに手を出して、ここに生きている現実がある以上、そこからは逃れられない。
それはそういうものだとして、受け止める必要がある。
ものが下に落ちていく、というのが当たり前の法則であるように、人生に起伏があり、一定ではないのもまた当然である。
その起伏のネガティブな部分、困ったときにこそ、実は役に立つものが隠されている。
おそらくのちのちに使うことが出来る「アイテム」や「能力」などのパワーアップ要素がそこにはある。そうやって物語の登場人物は力をつけたり、あるいは力に溺れてしまったり、力を過信したり、することもある。
困ったことというのは、人生と言う物語においては、どうやらパワーアップイベントという意味合いがあるらしい。
力を得ることから逃げ続ける人は、自分に自信がないのだろう。
だから自分が正しくその力を扱えるかどうか、判断をつけられないのだろう。
でもせっかくのパワーアップイベントだ。困ったことや、その手のイベントは間違いなく、その力を手にすべきタイミングで訪れるはずだ。
その証拠に、それから逃げるようなことをすると、もっと困るようなことが連鎖して起こってくるようなことがあるはず。それで、どんぞこのどんぞこまで追い詰められてようやく逃げ場がなくなったときに、その「イベント」を受け入れる。
手に入れて欲しいから寄越してくれるのに、そこから逃げ続けると余計に現実はつらくなる。
現実にそんな辛い目に遭わせるようなことが起こるから現実が辛いと思いがちだけど、実際はそうではない。
「辛い目」というのはイベントだ。ゲームの演出だ。
辛いと見せかけておいて、この先のゲームで有利になるように仕組まれている。
そこを見抜けるかどうかで、辛いだけで終わるか、人生が面白いように変わっていくかが決まる。
逃げ続けているとどんづまる。どんづまっても逃げ続けると、しまいには天に召される。引き戻されるっちゅーことが起こるらしいけど、確かに、逃げ続けた人の末路って、そうかもしれないね。
困ったことを切り抜ける方法を考える。
もう、こりゃどうすりゃいいんだよ?お手上げ!って言いたくなるような「困ったイベント」こそ、でもこれパワーアップイベントでしょ?とどこかで分かってれば解決したくなる力はいくらでも湧き上がってくる。それが分からないから、もうだめだ。もうどうしようもない。どうすることもできないんだって、今度は無力感を学習してしまう。
そこを「これ分かってんよ。そういうイベントだろ?」と思えるかどうか。
そこが分かるかどうか。
ゲームは楽しむためにやっているのだから。
クリアするためにやっていて、惰性でやっているのとはわけが違うのだから。
困ったときこそ、勝負のしどころじゃねえかと、思うのです。