優しいホモたち

この辺にぃ、急に虚しさを感じる人たち、来てるらしいっすよ!

仕事哲学

 

本気で人に喜んでもらいたいと思ってないのに

仕事=奉仕をするのは無理がある、という話。

 

最近よく思うのですが、仕事を無理やりやってる。というのは、どういうことかと。

やりたくないけど、お金のために、仕事をする。

お金がなくちゃ生活できないから仕事をする。

 

生きるために仕事をする、雇われる、人生の時間を切り売りする、という手段がある。

 

これはもう、古い価値観なのでは?と思うのです。

いや、働いている人を否定していると言うわけでは、決して無いです。

 

ただ仕事と言うモノの本質から言って

奉仕(=人に喜んでもらうこと、お役に立つこと)が本来の目的であるのに、そこから外れてしまったのなら、それはもう仕事とはよばないのではないか。

お金というのは副次的なもので、報酬であり、対価であります。

時間を切り売りして、その分だけ払うというのはすなわち、その時間の分、しっかり奉仕しているという見込みがある、ということですよね。

 

大前提は、別にキリスト教徒ではなくとも

奉仕ということが先に頭にあるのが本来の仕事なはず。

 

そのあとに、対価がくる。報酬、その働きに見合った「歩合」で決まってくる。

 

決して対価の大きさが目的ではなく

本来の目的は、その奉仕がどれだけ周りの人のお役に立っているか。

喜んでもらうことができたか。できているか。

それが先ではないでしょうか。

 

奉仕とは、必要だからする。目的合理性の理屈です。

例えば、

 

人が生きていれば、食べたり飲んだりして命を維持する。

だから食事は必要です。

 

人が生きていれば、ごみも出る。環境も汚くなる。

だから掃除は必要です。

 

人が生きていれば、音楽を楽しもうとする。

だから音楽は必要です。

 

などなど。ここは僕だけでなくもっといろいろな人から意見をもらいたいところではあります。

「人が生きていて、必要になること」という議題で若者たちで話し合ったらとても建設的で前向きなディスカッションになるのでは?

 

なんて思いますが、余談はさておき。きわめて暴論的に単純化すると、こんな具合になります。

別に難しく考えているわけではなくて、

結局、必要だからする。それだけのことですよね、仕事=奉仕って。という話です。

 

で、例えば僕なら、音楽が人に必要で、そのためには楽器が必要で、だから楽器を修理したり、作ったりする人も必要になる。という理屈を理解しているので、職人さんを目指してみようかなとか、思考回路的には考えているわけですね。

 

別に、毎回毎回そんなまわりくどいことを考えているわけではなくて

大前提として先に述べたような奉仕の理論が頭に入っているから、いちいち考えて決めているわけではもちろんありません。

思考の流れを記すと、こういう具合になっているというだけの話です。

 

で、これが周囲と自分はずれてるなと感じることが多いです。

 

仕事について僕はそういう風に考えていて、奉仕としての仕事が当然であるという考えを軸にして僕は行動していますが、どうも周囲の人にこの行動の指針が見当たらない。

なんとなく仕事ってこんな感じ、みたいに考えている人の多いことが気になります。

 

お金=仕事

 

やりたいこと=仕事

 

みたいな図式の思考回路の人たちが多いかなと感じます。

いろんな考え方があっていいともちろん思いますが、

でも原点に立ち返るなら本来の仕事の意味は奉仕です。

 

そもそもなぜ仕事が存在して、私たちは仕事をするのか。という哲学が存在しないということは、自分がどこの立場で、どういう主張を持って、仕事という概念に立ち会っているのかがわからない。ということです。

 

海図で言うなら漂流状態だと言ってもいい状況です。

 

それをきちんと働いている大人さえよくわかっていないで仕事をしてるのか?と疑いたくなるような状況が多くて気になったので今回は書いてみました。まる。

「ああそうだった」と笑って生きてみる

 

今回の課題。

 

光の無いところに光を。

 

光あれ、と。

 

はあ?(笑)

らしいです。どうやら。なんのこったいな。

 

例えばね、行く先々に、くらーい顔してる人たちがいる。

文句ばっか言ってるけど、そのくせ、楽になるように努力はしない。

 

また音楽の話になっちゃいますけど

楽譜どおり弾けないなあ。って問題があったとしたら、

これ楽譜のせいだ、楽器が悪いせいだって練習もしないで言う。みたいな。

いや練習しなよ(笑)みたいな話です。

 

笑えますよね。

で、こういう人たちを、何とかしなさい。

というよりも暗い顔してるその原因は、練習しなさすぎだし、当然の量すらこなしていなから当たり前なことであって、その上で、こういう人たちも世の中には存在するから、それについて君はどうするの?こういう人たちと組むことになったとき、いかにして成果や、チームワークや、効率を目指すことが出来る?

 

また君自身もそうではないのだと、自信を持って言うことができるのか?

 

って感じで。明らかに試されているのが最近の状況です。

知らんがな。やることやってないのに上手くいかないってそれ当たり前じゃないか。

それでも不満な顔をせずに、光あれと、笑顔でやれるかどうか。

そういう人たちと組むことになっても、上手いこと切り抜けられるかどうか。

 

むむむ。

 

とりあえず、周りは鏡という至言がありますから、

すぐ文句言わない。愚痴は言わない。人のせいにしない。徹底しようか。

 

そして自分が悲しい顔をしそうになってたら、

後輩ちゃんの笑顔を思い出そう!(笑)

なんか、思春期の乙女みたいなことしてんなこの男は。気持ち悪いですね(笑)

 

人は変えられないからね、仕方ないね。

これがまた、自分を変えていくってのと、自罰的・自責的になるのとは訳が違うんだよね。

それで失敗すると、うつになっちゃいます(経験済み)。

 

自分は責める必要、ないですね。

責めるではなくて、ああそうだった。と気付いて変えるだけ。

 

例えば、

おおう、またわしは文句言っていたぞ。ああそうだった。

 

と気付くだけ。

自罰的・自責的というのはここに評価をいれてしまうことでっせ。

 

おおう、またわしは文句を言っていたぞ。

またこんな風にして自分はダメだ。こんなんじゃいけないんだ。

笑顔でないと、いけないんだ。

 

っていうのが自罰的。自責的。

それだけのなんですが、これが、体験してみると、いやはや(笑)

 

人間ってつくづく経験してみないとわからない生き物です。

やりがいと深みの本質

 

行き詰まり、どん詰まり。

でも、それは必然でもある。

 

僕の人生の船、「私(わたし)号」は今にも沈みそうである。

いや、元々は沈んでしまう予定だった。

それでも沈まなかったのはひとえに、先人たち、先輩たちの恩恵のおかげだ。

 

って、何の話をしてるのかと言えば、

僕の今までの生き方を振り返ってみて思うことがあります。

 

小中高、そして大と学校にいた頃も

部活をしていたときも、初めてアルバイトをしたときも

勉強は苦手だったし、働くのもあまり向いてない。

いつもどこへ行っても怒られてばかり、注意されてばかりで

僕はいつも自信を持つことができないでいたように思います。

 

でも唯一、バイオリン=部活だけは、なぜか上手くいった。

しかしそれは当然である。練習時間や努力が苦にならなかったし、それだけの時間をつぎ込むことができたからだ。学校にいるときの大半は、バイオリンとの「コミュニケーション」の時間に使った。別に上手に弾けずとも、バイオリンといつも僕は一緒に居た。

 

そして何より、バイオリンの習得は明確だった。

過去から今まで語り継がれ、引き継がれている偉大な作曲家たちが作り上げた楽曲。

それらのエッセンスをたとえ一齧りでも、分かることが出来ればその恩恵は凄まじい。

 

自分が弾けるようになればなるほど、楽譜の上の音楽だけでなく、人の心を動かす音の波が、なんとなく「見えてくる」ようになる。またそれらを再現できる具合が、上手くなればなるほど良くなっていく。

 

これもまた偉大な先人たちのおかげだ。

そうして脈々と、今の現代まで古くから続いてくるだけの理由が当然あるのだ。

バイオリンとコミュニケーションをとること、というのはイコールで、古代から続く音楽のエッセンスを引き継ぐということに他ならない。

それはアマチュアでも、プロでも関係なく、味わうことの出来るこの上なく高品質なエッセンスであります。

 

突貫工事で作り上げたような教育制度や、社会とはわけが違う。

熟成された深み、じっくりと味わい、掘り下げるだけの深みがある。

たかが音楽の話、されど音楽の話というもの。侮ること無かれ。

 

人間と言うものは単独で生きてはいけないのです。

人間と言う生き物全体もまた、脈々と引き継がれる「何か」をつながりに

生きている生き物の集合体だととらえることが出来る。

 

深みと言うのはつながり。つながりというのは引き継ぐということ。

 

それらがないということは、歴史が浅いか、もしくは「存在しない」。

つまり、今現在のみのただ一点。「単独」だということです。

 

過去も未来も無く、今だけを生きている。

それを単独、あるいは「つながりのない」、と僕は表現しています。

世間ではそれらのことを「レトロ」「クラシック」と呼んでいる。単なる隔絶された昔のこと、という意味合いを持つ言葉です。

昔のこと、なんてとんでもない。今も昔もあるから、未来へつながる。引継ぎ、脈々と受け継がれるのではないか。

 

なんでそんなことを言うのかといえば、

この深みこそ、皆様のおっしゃる「やりがい」とかいうものの正体ではないかと思っているからです。

仕事や、人生や、生きていて求める「何か」とはこのつながりのことではないかと、僕は常々考えています。

 

だから端的に言って

例えば「仕事にやりがいが無い」とふと感じたとき、その直感はもしかすると

それを掘り下げるだけのつながりが存在しない、深みがないということを感じ取っているのかもしれない。

・・・という可能性もあるということを示唆します。

人は、過去も未来も感じ取れず、今しか生きていない(→例えば、仕事の毎日、行っては帰って寝て出かけて同じことの繰り返し・・・等々)と感じると、つながりを失って、時代からも、人間全体の歴史からも外れて、孤独のような気持ちを感じる。

 

人は過去も今もつないで生きています。それは間違いありません。

でも、環境によっては「何らかの突貫工事か何か」の影響で、そのつながり自体、深みが著しく損なわれていることがあります。

特にこの日本と言う社会ではいわゆる「突貫工事」の影響は各所に見られます。

 

疫病のように、目に見えず、少しずつ蝕んでいくような

大樹が徐々に朽ちていくような。そんな感覚だと言えば分かりやすいでしょうか。

 

じゃあどうすりゃいいんだよって。

腐らせている原因はきちんと過去にあるじゃあないですか。

過去の突貫工事が取り返しのつかない事態を招いている。

その病の原因を、少しずつ、みんなでなんとか取り除いていくしか、ないじゃないですか。

その過去を過去と切り捨ててみないふりをしても今には、未来にはつながる道理はないじゃないか。

 

腐った大樹がずっと植わったままでは新しい芽も生えてきはしない。

今の世代だけが生きるためというのは、今しかない生き方です。

 

腐った大樹でもその恩恵を受けている人がいるから切り倒せない。

悪いものは悪いのにね。

清流の清濁はその源にある。

 

人は短い生き物だから今だけを見がちだ。

でも今だけを見る人間はもれなく本当の意味で孤独になるだろう。

 

人は今だけではなく、つなぎあって生きる。それが本質ではなかろうか。

そのつながりとは、自然と、僕がバイオリンに触れて感じ取ったそれであり、人のこれまでの歴史である。

突貫工事で作り上げたものには、その深みは感じられない、のかもしれないです。

 

だから今の社会で直感的にそれを感じた人々はいうのかもしれません。

 

「やりがいがない」「何かが違うんだ」と。

 

その背中を追いかけて

 

「せんぱぁ~い」

 

バイオリンを練習していると彼女は僕のことをかぎつけてやってくる。

ドアをニコニコしながら開く、その顔が、笑顔が僕は大好きだ。

 

「まーた、どうせ用も無く来たんだろ?

 ほらほら、練習のじゃまだ」

 

「またサボりですかぁ?」

 

「うるさいな。戦略的撤退っていう言葉をお前は知らんのか」

 

「それってサボってるのと違うんですか?」

 

「俺は社会に反抗してるの!反抗期!」

 

「うふふ、なんですかそれぇ。また後で会いましょうね~」

 

ひらひらと手を振ってドアを閉めていく。

その仕草がとても愛おしかった。

 

バイオリンを弾いていれば彼女に会えた。

まじめに練習しに来ていても、頭のどこかにここにいれば彼女に会えるという

思いはいつもあった。結局、練習よりもそれが目的になっていた。

 

授業や、部活や、それらから離れて

練習部屋で先生から習ったものを使い、バイオリンを弾いている時間は僕にとって

心の逃げ場でもあった。

嫌なことがあったとき、逃げ出したいとき

うまく日常に馴染めないとき。悩み事があったとき。

 

僕はいつも練習部屋でバイオリンを弾いた。

 

独り。自分だけの時間。

僕自身のこの先の不安をかき消すために

ひたすら音に集中して、嫌なことを忘れようとした。

 

僕にとってバイオリンを弾く時間は特別な時間でした。

そんな独りの時間だったのに。

 

いつしかそこに後輩ちゃんが遊びに来るようになった。

あれやこれやと授業のこと、先生のことを話したり

部活のことを話したり。時にはバイオリンを教えたりもした。

 

たまには、彼女の悩み事を聞くときもあった。

 

ちなみに逆に僕の悩み事を後輩ちゃんに話すといつも軽くあしらうのである。

悩み事を聞いてるんだから俺の話も聞いてくれないかなあという淡い期待

それからその意地汚い、見え透いた僕の弱い心の魂胆など彼女にはお見通しなのだ。

 

それよりも、僕はその時間を、自分のそんなくだらない悩みを聞かせるよりも

彼女と一緒に何かをして過ごせる時間を、大切に思うようになった。

これから僕が学校に来なくなれば、おのずと彼女と一緒に何かできる時間も少なくなる。

 

卒業してしまえばなおのこと。

 

もう文化祭にも誘われることはないし、一緒に練習することも無くなる。

こうして練習部屋で話すことも、バイオリンを弾いて、学校へ通って

日々を過ごす彼女のことを眺めることも出来なくなるだろう。

 

だから彼女と過ごせる時間のひとつひとつがとても大切に思うことが出来た。

 

いつしか僕にとって部活は、彼女に会うための口実になっていたと思う。

それまではずっと独りで、孤独にバイオリンに打ち込んでいた。

そもそも僕はバイオリンという楽器を弾き、クラシックの音楽をオーケストラに参加して奏でることで自分の感性を高めようと思って、部活に入ったのだ。

古来から続く、楽器を編成して鳴らす、この構成。

それを学ぼうと思って、体感しようと、音を体験するために。

 

音楽を自分で作りたかったのです。

自分の中で鳴っている音を、心を表現できたら素敵だな。

それこそ、僕の初心でした。

 

おかげで音楽はいつも僕の中にあり、今では拙いながらも

自分の中にある音の表現を曲にすることだってできるようになった。

高校3年生が終わって、初めて大学へ登校した5年前のあの日。

 

ずっと独りだったと言うのに

気付けば、最後は後輩ちゃんのことを追いかけていた。

 

その日々は、僕がずっと欲しかったもの、そのものでした。

可愛い後輩と一緒に、音楽を奏でて

練習をして、大学生活のあれやこれやを語り・・・

悩んだり、笑ったり、話し合ったり。

それだけじゃない。

いろいろな後輩たちからも慕われ、音楽を弾き鳴らす日々。

楽しく、くだらない時間を過ごしあう日々。

 

その答えは、いたって単純だ。

後輩ちゃんに会えただけで嬉しかった。彼女と話が出来た日には、僕は柄にも無く

舞い上がって、一言会話を交わしたことにすら、帰った後大喜びしていた。

例えば後輩ちゃんが「先輩の夢を見たんですよ」なんていった日には、それはもう。

勘違い男がぬかよろこびするがごとく、皮算用をするがごとくに

後輩ちゃんが俺の夢を見るくらい俺のことを大好きだって思ってくれてる!なんて。

大喜びしたものです。

 

悪いことなんか一切考えてなかった。

それがこの幸せの答えだ。

 

彼女に会えた日は、話が出来た日は、それだけで嫌なこと、不安、悪い予想。

そんなネガティブな気持ちなんか一切、吹き飛んでしまう。

 

要するに「幸せ」。という気持ちがそれだ。

僕が部活で、学校で嫌な気持ちになってきたこと。そしてそれらの解決のためにやってきたことがそのまま、後輩たちの悩み事を解決するのに役に立った。

 

自分のために解決したことは、同じ悩みや困りごとを持っている人たちを助けることが出来るということ。

そして、自分の解決をおざなりにしているときほど、外側に何かを求めることばかりしてしまうこと。

 

幸せ、というものはどうやら自分の心からの悩み事や困りごとを、自分自身のために解決した数だけやってくるらしい。

 

誰かのために、何かのためにと、外側にばかり求めてしまうとそれは本当には幸せを呼び込まないものらしい。

 

言うならば、いざというとき

頼りになる男。と頼りにならない口先だけの男。みたいな。

その違いのような感じです。分かりにくいですかね。

恋い慕い情熱

 

好き!というエネルギーはとても素晴らしい。

 

その好きな人に向かって進む直接のエネルギーだ。

その人が好き!というだけでどこまでも突き進めるほどのエネルギーだ。

 

恋をして、お付き合いをして・・・なんて世間一般のパターンがある。

恋をしよう、と思って恋をしたわけじゃない。

理屈じゃなくて、好きになるほうが先。考えるより手が出るほうが先。

 

後輩ちゃんには「先輩は本能的過ぎます」と揶揄されるのですが(笑)

 

いや、でもですよ。

恋をしよう。ってそれはそれでいいはずですけど、それって不自然かなって。

好きになるもんは好きになっちゃうんですよ。理屈じゃなくて。

これは、いわゆる「男性脳」的な考え方なんでしょうね。

語弊を恐れずに言うなら、おおっ!自分に適した雌がそこにいる!という(下品な表現ですいません)。

 

無論、人間も人間である前に生き物。だから生物的な意味で。ですよ。

 

それを人間は理性でも考えることをする。恋しよう。好きになろう。人を愛そう。

だから人間らしく計画する。デートしよう。食事しよう。プランを立てよう。

合コンをセッティングしよう。婚活をしよう。恋人をそろそろ見つけよう。ってね。

そして理性の部分は「文化」を作ります。

それは「社会性」をつくります。

それらの「文化」を共通した価値観として持っている「集団」になります。

 

これがいわゆる「空気」というやつの正体かなと今の僕は憶測を立てていますが果たして。

 

それはともかく。

デートや食事や、合コンや婚活など。

そういったものは、僕からすれば人間らしい建前だなあと。

そういうように見えるんですね。

 

いかにその社会性が優れているかというところを見て、

ああこの人はちゃんと文化的に生活できるんだな=その集団において価値観が合っている

ということを確認するわけですね。

実に人間らしいですよね。そこから阻害されてしまうような人を、わざわざ選んでしまうわけにはいきません。特に女性からすれば、その社会集団の中で生きるということは、自らの生存手段に他ならないのですから。

 

というわけでこれが理性的で、人間らしい合理的な判断の仕方だと僕は分析しています。

 

はて。なんでわざわざこんなしちめんどうくさい、分析してるんでしょうね(笑)

というのも。後輩ちゃんにも指摘されたとおり、僕は本能的すぎるので、そういう理性的で人間的な判断をないがしろにしてしまう傾向があります。というと、集団生活、まとまった価値観からどこか阻害されて、いや、むしろ自分から好き好んで離れていくことすらあるのです。

 

文化的、合理的判断が嫌い。とか価値がないとか思っているというわけではなく。

はたまた、そういった理性的なことがまったくの無意味だ!なんて主張があるわけでもありません。

 

ただ。本能的なんです。だからついつい、建前に見えちゃう。

それも踏まえて、そういった合理的で、人間的なやりとりが大切なことは重々承知しているつもりです。

 

男の人だって女の人だって心では分かってますもんねぇ。

好きな人、素敵な人とそういう情熱的な時間が過ごしたい。でしょう?(笑)

 

だからこそ、心の素直な部分も大切にもっておいてほしい。

なぜなら、理性的、合理的判断だけでは人間は成り立っていないから。

予定や計画や、合理性だけではないから。

 

しかし。

かといって、本能的、野生的嗅覚だけでも人間は成立しない。ですよね?

好きだと思って電車の中で凝視しちゃったりそれだけでも不快なものですが、手が出てしまったらそれはもう犯罪ですからね(笑)

 

その両方のバランスを持って、情熱的に恋をしましょ。

人間的に文化的バランスを保って、建前をうまく使えばあら不思議。

本能的に好きを嗅覚、直感で判断すればあら不思議。

 

人間って、まー、しちめんどうくさい生き物です。

その両方をうまく使うことで、ちゃーんとお付き合いが成立します。

どちらか一方だけだと明らかにころげます。最初はよくてもどこかでバランス崩します。

 

なーんて女の子とお付き合いしてると、やっぱり世の中バランスなんだよなあと思わせられます(笑)

やっぱり男っていうのは、女には勝てないですね。

女の人にはいつも、育てられっぱなしですね(笑)

 

24年しかまだ生きてませんが、そういうもんだなってこの若造は思ってますがはてさて。

人生の先輩方もはたしてどうお思いになられるのか・・・(笑)

前髪を掴め!

 

後輩ちゃんも含まれる集合写真が送られてきました。

久しぶりに娘の顔を見れた気持ちになりました(笑)

 

彼女の表情を見るに・・・

ははぁ、奴も何かしらと戦っているな、こりゃ。

 

それで、今年のバイオリンパートには新しい1年生はどうやら5人も入ったみたいです。

素晴らしい。

 

宣伝、雰囲気、時期。人数を増やすための対策はいろいろあるけれど、やることやってても入らないときは入らないもんだ。でもやることくらいやっておかないと、入ってきてくれるときにもみすみす逃してしまう。だからやることやっておけば意味ないことなんてないんですね。

 

何事も。

 

でも間違いがひとつだけあるんですね。

それが、恐れや心配から行動すること。

 

人数が少なかったら部活(仕事)が成り立たない!

変な人ばかり集まったらどうしよう

うまく馴染めなかったら・・・

 

人数が少なくても、いるだけの人たちでなんとかやるんだよ、おう。

変な人ばかり集まったら、そのへんてこなところ活かしてやってみるんだ、おう。

馴染めなかったらそれしょうがねえよ。気が合わない人はいるんだから、無理にあわせなくても、あわせられるところだけあわせてうまくやんな。

 

やれるだけのことをする!と意気込むとき、その動機が恐れからきていると・・・

これ人を攻撃します。自分のことも責めます。長く続くとこれ、うつ症状が出てきます。

まず目立ってくるのは身体の各所の「凝り」。流れが悪くなるから、凝るんですね。当然ですね。

なんで、ちゃんと用心して準備までしたのに、ここまでやったのにダメなの!ダメだったんだ。

人を責めるわ、自分も責めるわ。辛いことを自分から呼び込みます。

 

運が悪い。流れが悪い。悪循環とはこのことだ。

 

この状態が人によるけども長く続けば脳みその中では間違いなく、幸福系のホルモン分泌の異常が見られることでしょう。物理的にも流れが悪いことはすぐに分かる。

恐れからやったことは、必ず人を、自分を責めるようになります。

すると自分も傷つけられるし、相手も傷つけられたくないから、人が離れていってしまう。

縁も運も自ら遠ざけてしまう、そういう状態を「恐れ」は招きます。

 

そうではなくて、準備もする。用心もしっかりやる。

ああなっちゃったらどうしよう、なってみなさい。なんとかできるから大丈夫だ。

 

どうしよう、どうしよう。って自分が大損すると思ってんだよね。

大変なことはやりたくない。自分が痛い目に遭いたくない。

自分だけは、助かりたい。

他の人も心配だけど、それ以上に自分が助かりたい。

 

いや、ほんと、人が集まらなかったらどうしよう、とかさ。

変な人ばかり集まっちゃったらどうしようって。一見、周りの人のことを考えているようで、自分のことしか考えてないよね。

人が集まらないと結局自分が大変になっちゃうから嫌、ってのが本心でしょう。

 

周りの人に無関心って言うのはこういうことでもある。

普通、ほんとに周りの人のこと思ったら、あんまり心配事ばっかりしてると逆効果だよね。いつも心配して文句みたいなことばっかり言ってたとしたら、みんなも気が滅入っちゃうよね。

だから、まあ、人と会うときに笑顔って大切なんだけど。ニコニコって顔が合っただけでちょこっと微笑むって大切なことなんだけどね。

 

準備もするし、用心もするし、策も用意する。

それでダメでもそこでなんとかできるよ!

もう手が無い・・・じゃなくて出すんだよ、その手を(笑)

 

よっしゃ対策はもうしたぞ!手は尽くしたぞ!

ああ、ダメだ、適わない・・・っておっこちそうになった現実が迫ってきたら

そこで一歩踏み出して、それでもなんとかやる!一手を伸ばす。

 

神様も女神様もにっこり微笑みます。

 

この一手と一歩が出すコツが分かってくると楽しくなってくるんじゃないですかね。

 

あ、でもほら疲れすぎちゃって、頑張りすぎちゃって

脳とか身体のバランスがおかしくなっちゃってる人は無理しちゃダメですよ。

そんな状態で「楽しい」とか無理ですからね。現状維持、平らより若干下がるくらいで滑空飛行してるイメージを日々維持しつつ徐々に、身体を元に戻すことが先決です。

神様も女神様も、笑って待っててくれてますよ。

困ったときが勝負のしどころ

 

神様というのは往々にして困ることを起こしてくれる。

その後に起こる、困ったことに対して準備をさせるために。

今困ることによって、後々の采配がうまくいくように。

 

だったら最初から困ることなんか用意してくれなくていいのにと思うけど、

そうそう。これはゲームだから、山あり谷あり、演出ありき、なんですよね。

 

困ること=イベントっすね。

イベントは起点。その積み重ねでストーリーになっていく。

 

漫画を描くときも、漫画家ってのは「キャラクター」に没入することで、そのキャラ自身に物語を引っ張ってもらう。描いた物語がその人物らしい行動や言葉になっていく、という手法がとられることがあるみたいです。

だから没入するのにえらく集中力が必要だし、これが現実に引き戻されて途切れると、また戻るのに仕切りなおして、没入しなおさないといけない。

 

物語がなくていいのなら、初めからイベントなんていらないし、キャラクターも必要ない。

自分が何かする必要もないし、困る事だって要らない。お望みどおり、わざわざ困るようなことなんかしなくていい。

 

だけど、どうやら人生というのは物語らしい。

困るようなことが必ず起こる。望んでいないことも、必ず起こる。

人生というゲームに手を出して、ここに生きている現実がある以上、そこからは逃れられない。

それはそういうものだとして、受け止める必要がある。

ものが下に落ちていく、というのが当たり前の法則であるように、人生に起伏があり、一定ではないのもまた当然である。

 

その起伏のネガティブな部分、困ったときにこそ、実は役に立つものが隠されている。

おそらくのちのちに使うことが出来る「アイテム」や「能力」などのパワーアップ要素がそこにはある。そうやって物語の登場人物は力をつけたり、あるいは力に溺れてしまったり、力を過信したり、することもある。

 

困ったことというのは、人生と言う物語においては、どうやらパワーアップイベントという意味合いがあるらしい。

 

力を得ることから逃げ続ける人は、自分に自信がないのだろう。

だから自分が正しくその力を扱えるかどうか、判断をつけられないのだろう。

 

でもせっかくのパワーアップイベントだ。困ったことや、その手のイベントは間違いなく、その力を手にすべきタイミングで訪れるはずだ。

その証拠に、それから逃げるようなことをすると、もっと困るようなことが連鎖して起こってくるようなことがあるはず。それで、どんぞこのどんぞこまで追い詰められてようやく逃げ場がなくなったときに、その「イベント」を受け入れる。

 

手に入れて欲しいから寄越してくれるのに、そこから逃げ続けると余計に現実はつらくなる。

現実にそんな辛い目に遭わせるようなことが起こるから現実が辛いと思いがちだけど、実際はそうではない。

「辛い目」というのはイベントだ。ゲームの演出だ。

 

辛いと見せかけておいて、この先のゲームで有利になるように仕組まれている。

そこを見抜けるかどうかで、辛いだけで終わるか、人生が面白いように変わっていくかが決まる。

逃げ続けているとどんづまる。どんづまっても逃げ続けると、しまいには天に召される。引き戻されるっちゅーことが起こるらしいけど、確かに、逃げ続けた人の末路って、そうかもしれないね。

 

困ったことを切り抜ける方法を考える。

もう、こりゃどうすりゃいいんだよ?お手上げ!って言いたくなるような「困ったイベント」こそ、でもこれパワーアップイベントでしょ?とどこかで分かってれば解決したくなる力はいくらでも湧き上がってくる。それが分からないから、もうだめだ。もうどうしようもない。どうすることもできないんだって、今度は無力感を学習してしまう。

 

そこを「これ分かってんよ。そういうイベントだろ?」と思えるかどうか。

そこが分かるかどうか。

ゲームは楽しむためにやっているのだから。

クリアするためにやっていて、惰性でやっているのとはわけが違うのだから。

 

困ったときこそ、勝負のしどころじゃねえかと、思うのです。