仕事哲学
本気で人に喜んでもらいたいと思ってないのに
仕事=奉仕をするのは無理がある、という話。
最近よく思うのですが、仕事を無理やりやってる。というのは、どういうことかと。
やりたくないけど、お金のために、仕事をする。
お金がなくちゃ生活できないから仕事をする。
生きるために仕事をする、雇われる、人生の時間を切り売りする、という手段がある。
これはもう、古い価値観なのでは?と思うのです。
いや、働いている人を否定していると言うわけでは、決して無いです。
ただ仕事と言うモノの本質から言って
奉仕(=人に喜んでもらうこと、お役に立つこと)が本来の目的であるのに、そこから外れてしまったのなら、それはもう仕事とはよばないのではないか。
お金というのは副次的なもので、報酬であり、対価であります。
時間を切り売りして、その分だけ払うというのはすなわち、その時間の分、しっかり奉仕しているという見込みがある、ということですよね。
大前提は、別にキリスト教徒ではなくとも
奉仕ということが先に頭にあるのが本来の仕事なはず。
そのあとに、対価がくる。報酬、その働きに見合った「歩合」で決まってくる。
決して対価の大きさが目的ではなく
本来の目的は、その奉仕がどれだけ周りの人のお役に立っているか。
喜んでもらうことができたか。できているか。
それが先ではないでしょうか。
奉仕とは、必要だからする。目的合理性の理屈です。
例えば、
人が生きていれば、食べたり飲んだりして命を維持する。
だから食事は必要です。
人が生きていれば、ごみも出る。環境も汚くなる。
だから掃除は必要です。
人が生きていれば、音楽を楽しもうとする。
だから音楽は必要です。
などなど。ここは僕だけでなくもっといろいろな人から意見をもらいたいところではあります。
「人が生きていて、必要になること」という議題で若者たちで話し合ったらとても建設的で前向きなディスカッションになるのでは?
なんて思いますが、余談はさておき。きわめて暴論的に単純化すると、こんな具合になります。
別に難しく考えているわけではなくて、
結局、必要だからする。それだけのことですよね、仕事=奉仕って。という話です。
で、例えば僕なら、音楽が人に必要で、そのためには楽器が必要で、だから楽器を修理したり、作ったりする人も必要になる。という理屈を理解しているので、職人さんを目指してみようかなとか、思考回路的には考えているわけですね。
別に、毎回毎回そんなまわりくどいことを考えているわけではなくて
大前提として先に述べたような奉仕の理論が頭に入っているから、いちいち考えて決めているわけではもちろんありません。
思考の流れを記すと、こういう具合になっているというだけの話です。
で、これが周囲と自分はずれてるなと感じることが多いです。
仕事について僕はそういう風に考えていて、奉仕としての仕事が当然であるという考えを軸にして僕は行動していますが、どうも周囲の人にこの行動の指針が見当たらない。
なんとなく仕事ってこんな感じ、みたいに考えている人の多いことが気になります。
お金=仕事
やりたいこと=仕事
みたいな図式の思考回路の人たちが多いかなと感じます。
いろんな考え方があっていいともちろん思いますが、
でも原点に立ち返るなら本来の仕事の意味は奉仕です。
そもそもなぜ仕事が存在して、私たちは仕事をするのか。という哲学が存在しないということは、自分がどこの立場で、どういう主張を持って、仕事という概念に立ち会っているのかがわからない。ということです。
海図で言うなら漂流状態だと言ってもいい状況です。
それをきちんと働いている大人さえよくわかっていないで仕事をしてるのか?と疑いたくなるような状況が多くて気になったので今回は書いてみました。まる。