優しいホモたち

この辺にぃ、急に虚しさを感じる人たち、来てるらしいっすよ!

やりがいと深みの本質

 

行き詰まり、どん詰まり。

でも、それは必然でもある。

 

僕の人生の船、「私(わたし)号」は今にも沈みそうである。

いや、元々は沈んでしまう予定だった。

それでも沈まなかったのはひとえに、先人たち、先輩たちの恩恵のおかげだ。

 

って、何の話をしてるのかと言えば、

僕の今までの生き方を振り返ってみて思うことがあります。

 

小中高、そして大と学校にいた頃も

部活をしていたときも、初めてアルバイトをしたときも

勉強は苦手だったし、働くのもあまり向いてない。

いつもどこへ行っても怒られてばかり、注意されてばかりで

僕はいつも自信を持つことができないでいたように思います。

 

でも唯一、バイオリン=部活だけは、なぜか上手くいった。

しかしそれは当然である。練習時間や努力が苦にならなかったし、それだけの時間をつぎ込むことができたからだ。学校にいるときの大半は、バイオリンとの「コミュニケーション」の時間に使った。別に上手に弾けずとも、バイオリンといつも僕は一緒に居た。

 

そして何より、バイオリンの習得は明確だった。

過去から今まで語り継がれ、引き継がれている偉大な作曲家たちが作り上げた楽曲。

それらのエッセンスをたとえ一齧りでも、分かることが出来ればその恩恵は凄まじい。

 

自分が弾けるようになればなるほど、楽譜の上の音楽だけでなく、人の心を動かす音の波が、なんとなく「見えてくる」ようになる。またそれらを再現できる具合が、上手くなればなるほど良くなっていく。

 

これもまた偉大な先人たちのおかげだ。

そうして脈々と、今の現代まで古くから続いてくるだけの理由が当然あるのだ。

バイオリンとコミュニケーションをとること、というのはイコールで、古代から続く音楽のエッセンスを引き継ぐということに他ならない。

それはアマチュアでも、プロでも関係なく、味わうことの出来るこの上なく高品質なエッセンスであります。

 

突貫工事で作り上げたような教育制度や、社会とはわけが違う。

熟成された深み、じっくりと味わい、掘り下げるだけの深みがある。

たかが音楽の話、されど音楽の話というもの。侮ること無かれ。

 

人間と言うものは単独で生きてはいけないのです。

人間と言う生き物全体もまた、脈々と引き継がれる「何か」をつながりに

生きている生き物の集合体だととらえることが出来る。

 

深みと言うのはつながり。つながりというのは引き継ぐということ。

 

それらがないということは、歴史が浅いか、もしくは「存在しない」。

つまり、今現在のみのただ一点。「単独」だということです。

 

過去も未来も無く、今だけを生きている。

それを単独、あるいは「つながりのない」、と僕は表現しています。

世間ではそれらのことを「レトロ」「クラシック」と呼んでいる。単なる隔絶された昔のこと、という意味合いを持つ言葉です。

昔のこと、なんてとんでもない。今も昔もあるから、未来へつながる。引継ぎ、脈々と受け継がれるのではないか。

 

なんでそんなことを言うのかといえば、

この深みこそ、皆様のおっしゃる「やりがい」とかいうものの正体ではないかと思っているからです。

仕事や、人生や、生きていて求める「何か」とはこのつながりのことではないかと、僕は常々考えています。

 

だから端的に言って

例えば「仕事にやりがいが無い」とふと感じたとき、その直感はもしかすると

それを掘り下げるだけのつながりが存在しない、深みがないということを感じ取っているのかもしれない。

・・・という可能性もあるということを示唆します。

人は、過去も未来も感じ取れず、今しか生きていない(→例えば、仕事の毎日、行っては帰って寝て出かけて同じことの繰り返し・・・等々)と感じると、つながりを失って、時代からも、人間全体の歴史からも外れて、孤独のような気持ちを感じる。

 

人は過去も今もつないで生きています。それは間違いありません。

でも、環境によっては「何らかの突貫工事か何か」の影響で、そのつながり自体、深みが著しく損なわれていることがあります。

特にこの日本と言う社会ではいわゆる「突貫工事」の影響は各所に見られます。

 

疫病のように、目に見えず、少しずつ蝕んでいくような

大樹が徐々に朽ちていくような。そんな感覚だと言えば分かりやすいでしょうか。

 

じゃあどうすりゃいいんだよって。

腐らせている原因はきちんと過去にあるじゃあないですか。

過去の突貫工事が取り返しのつかない事態を招いている。

その病の原因を、少しずつ、みんなでなんとか取り除いていくしか、ないじゃないですか。

その過去を過去と切り捨ててみないふりをしても今には、未来にはつながる道理はないじゃないか。

 

腐った大樹がずっと植わったままでは新しい芽も生えてきはしない。

今の世代だけが生きるためというのは、今しかない生き方です。

 

腐った大樹でもその恩恵を受けている人がいるから切り倒せない。

悪いものは悪いのにね。

清流の清濁はその源にある。

 

人は短い生き物だから今だけを見がちだ。

でも今だけを見る人間はもれなく本当の意味で孤独になるだろう。

 

人は今だけではなく、つなぎあって生きる。それが本質ではなかろうか。

そのつながりとは、自然と、僕がバイオリンに触れて感じ取ったそれであり、人のこれまでの歴史である。

突貫工事で作り上げたものには、その深みは感じられない、のかもしれないです。

 

だから今の社会で直感的にそれを感じた人々はいうのかもしれません。

 

「やりがいがない」「何かが違うんだ」と。