優しいホモたち

この辺にぃ、急に虚しさを感じる人たち、来てるらしいっすよ!

あそびの部分

 

何のために力が欲しいんですか。

上手くなりたいとか、今より成長したいってなんで思うのよ。

 

真面目な人。フツーに就職活動したり、フツーに世の中で生きてる人はこれまたフツーに答える人が多い。お金のため。キャリアのためだって言うんです。今後の生活のため、結婚したいとか、家庭が欲しいとか。

普通ですよね。至極真っ当です。

 

僕が上手になりたいとか、今より成長したいと思うのは面白いから。

それ以外の理由は無いです。馬鹿らしいことって面白いんです。

例えばバイオリン。これを弾くのにも、くそ真面目に弾くと例えば音階のどうのこうの、指に場所を覚えさせる基礎練習があったり、それは分かりますね。何事にも基礎ってありまして、とっても大切な土台になるものです。が、そんなことくそ真面目にやらんでも、弾けます。というかここをくそ真面目にやっちゃうとたぶん弾くのってつまらないって多くの人が思うだろうと。

 

どういうことかというと、プロでさえも言うんですよ。「基礎練習のために基礎練習なんかせんでいい。時間の無駄だから」って。何のために君はその指が動かせるになったりとか、何のために音階を何度も往復したりとかしてるの?ということです。

バイオリンってけっこう魅せ技ってあるんですよ。かっこいい、見た目が派手、地味だけど玄人っぽい、そういう場面が曲を弾いてると出てくるんですね。ここをちょろんって弾けると周りも「すげえ!」ってなるんですが、僕はなにより自分がこんな部分を弾けてるんだぜ、ちょろんってやれちまってるんだぜ?と自己陶酔に浸るような気持ちと、そこからあふれ出る音楽を弾くことの喜び、楽しさを感じるのです。

 

なんてそれっぽく書きましたが本当にくだらないところばっかり練習してました。

ポジション移動といって左手の弦を押さえる指の位置を変更する動作があるのですが、あれも真面目にやっててつまらないからわざわざハイポジションで弾いてみたり、弓の動きも退屈なので全部スラーにしてわざわざ難易度を上げてみたりとか。そんなことばっかりやってました。

くそ真面目にやってもつまらないんです。みんな真面目にやってるけど、それ楽しい?楽しいんならいいんだけどさあ。みたいな感じで。ちなみに僕がそんなことを大学オケに所属している間、まかりとおすことが出来たのはやはり、破天荒・型破りのファーストの彼のおかげです。彼もそういう馬鹿みたいなことに楽しみを見出す男でした。返事をわざわざ「へい!」と言って精神力を高めようとするような奴ですからね。そこに共通性があるのは言わずもがな。

 

返事ひとつとっても、基礎練習ひとつとっても、楽譜の読み方にしても、普通じゃない。理由はまじめにやると長続きしないから。そしてプロ理論的にはそれはちゃんと理にかなっている。不思議なもんです。ひとくちに真面目にやるって言ったって、真面目真面目ってうるさいだけです。はい、とか、へい、とか、ほい、とか言ってたら面白いじゃない。それは完全に僕の好みですが。オフィスに仕事場に学校に、毎日通うんだとしたらこういうどうでもいいところに遊びがないとやってられない。だってただでさえ、毎日同じようなことをするのって退屈なのに、業務自体は変えられないのだとしたら、ほんとこういうところで遊んでやらないと、人間おかしくなっちゃうよ。僕だけかなあ。

少なくとも1992年生まれの僕の同期たちにはこのようなある種のあそび、前向きな不真面目さを楽しむことの出来る余裕とも言うべき、または退屈なことを長続きさせるための暗黙の了解的な楽しみ方を持っている人たちがわりかし多いなあと感じます。

 

楽器作りの、バイオリンの一流と呼ばれる職人さんに2人ほど会ってみたりしたのですが、その人たちに共通するのは気さくでをタバコをばかばか吸って、あそびの部分を存分に楽しんできた、その雰囲気が熟成されて良い感じに醸し出されている職人のおじいちゃんというか、アウトローな雰囲気のおっちゃんたちでした。

 

だから僕はてっきりバイオリンの業界ってそんなもんなのかなあなんて思ってたんですが、とかくいろんな人がいるものです。真反対のくそ真面目、真面目のための真面目で、遊びが無いスタイルの人もいる。これが今の学校ですね。

でも今の一流の人たちってそんなことしてない。真面目のための真面目じゃなくて、遊びの部分を残しつつ、楽器に向き合い、数をこなし、腕をあげてきてるのです。そのやり方には自分の中にも十分覚えがあるわけで。

 

そのあそびってのは、ものを長続きさせるための知恵でもありまして

また長く続けられるってことはそれに中身が伴っていれば上手くなるのも至極当然でして。

 

理屈で言うと真面目になっちゃいますね。

でも真面目なことなんてやってないんですよ。くだらないあそびをして、まじめなことやどうしても避けられない真面目な場面をやり過ごす。

 

中学時代なら部活の基礎練習、体力づくりでマラソンみたいなことをしていましたが、そのマラソンもひたすら走っているだけだとつらいっす。朝練ってことで7時から走りこみです。くそ食らえですが、とりあえずは一生懸命走るんです。それだって、終わった後に、駐輪場を通るのですが、そこでみんなでやるんです。何を?でかいクモの巣を見つけて、秋ならトンボとか、虫をそこに投げ入れるとゾゾゾーっとクモの巣に比例した大きさの大グモが出てくるんですね。捕食シーンが大迫力で見られるわけです。

 

ああ、こんなのがみんなで楽しめるなら走る価値はあるなあ、真面目なこともやってやってもいいかって横暴にも思っていたことを今でも覚えています。

 

あれから僕は本質的には変わっていないということにも気がつきます。真面目なことをやってると拒絶反応が出てしまう。真面目なことをやる代わりにどうしてくれんだよ?おい?って感じの心の声が常に、そういえばあります。

例えば今のバイオリンの学校でもそうですね。みんなでいいーこに、教室でやってるともうだめです。面白いことしようよ、木工細工とかさ、授業なんかどうせ追いつくから遊ぼうぜ!的な。レポートなんか書けって言われりゃ書けるんだから学校のレポートなんて出す必要ないぜ!みたいな。だって学校だよ?お金払って何を教えてもらいにきたのさ。中学までは義務だけど、それからは自分で学びたいことを決めてきてるんでしょ。それと関係ないことを提示されたら、嫌ですって拒否しようよ。学校がそういう決まりだからとか、関係ないよ。・・・なんて思うのは僕が不真面目なだけなんでしょうか。

 

僕にとっては長い目でものを見てるから、今真面目かどうかなんて些細なことです。

そこにとらわれないで生きてみると、時におもいきり共感できる人にも会うし、それとは真逆の大真面目に生きてる人にも出会うこともある。孤独になったり、友がいたり、いなかったり。

 

ね、長くものを続けるってのはけっこうすごいことです。

その間に疲れちゃったり、情熱を失ったり、楽しみが消えちゃったりしてる大人を見てきて思ったことは、とにかく遊びが無い。それだけです。真面目すぎる。

今の世の中、義務で働かなくちゃなりません、って強制的に労働に参加させられているシステムなんだから自分の意思とは関係なく、働かなくちゃいけないんですよ。中学までと同じで、義務なんですね。

それをくそ真面目に受け入れてたら、おおよそ、なんで働くのか、それは義務だからってだけの理由で働いて生きるのを続けていたらそりゃ、人間しおれてくるわけだ。

 

そんなことに気付くのがしばらーく働いて、会社や何かに尽くしてきて、ふと自分の人生を振り返ってみて、いろいろの意味を考えてみて、年老いてからああすりゃよかったって、若者について思うみたいですね。還暦過ぎてから、とか40歳くらいになってから、少し落ち着いてきた(感情が鈍ってきた?)ところでふと、そんな風に振り返る大人もいるみたいです。

 

仕事にも遊びを。長く続ける上でとても、大切なことだなと思います。

生きるうえでも同じく、そう思います。