優しいホモたち

この辺にぃ、急に虚しさを感じる人たち、来てるらしいっすよ!

僕が教わったこと

僕が先生たち、信頼する大人・・・

本当の親のように慕ってきた大人から教わったことは、

 

わたしはきみを愛している

 

ただそれだけです。僕の短所だって彼らは知ってます。

僕が学習スピードがそんなに速くはなく、ゆっくりと全体を理解しようとするから、処理に時間がかかってしまうことを知っていますし、見抜いてくれています。だから僕に遅い、とは言わない。

その代わり、ゆっくり、落ち着いて、リラックスして脳みそが一番働く状態になるように、環境を整えることをすすめてくれました。まずは静かな場所で、どの先生たちも、わたしは敵ではないよ。笑いかけてくれます。決して声を荒げることなく、僕が一番集中できるように環境を作るのを手伝ってくれる。

 

その態度や仕草で、大丈夫。君の事は良く分かっているからゆっくりやっていこう。

そう語りかけてくれているように僕には見えるし、安心できる。

この人は敵じゃない。僕のためを思ってやってくれてるって信用できる。

 

そして落ち着いた環境で勉強やレッスンが進みます。こうしてやるんだよ、理屈はこうなんだよと言われたことが頭の中にスムーズに入ってきます。その時、頭の中にある既存の知識と今新しく教わっている知識がすごく飛び交っていくのが自分でも分かります。するとそれらの知識を関連付ければ、新しく疑問が生まれてくる。気付いたら質問してます。それってどういうこと?つまりこういうことなんですか?そうなると、今のこの理屈はこういうことに使えるってことですか?まさにこども特有の質問攻めになります。

 

僕にとって何かものを習い、教わるといえばこれです。

この環境を整えて学ぶのが僕にとって一番いい学びの方法です。

 

だから普通の学校は・・・

僕にとってはあまり良い環境ではないことが多い。

僕は学校といえば学ぶ場所。こうしてレッスンしたり、質問したりして、自分の知識理解を深めて、世界の事を、身の回りの事を知っていくこと。でもたいていの人は、学校へ学びにだけ、来ているわけじゃない。友達に会うためだったり、話をするためだったり、コミュニケーションの場として利用している人のほうがたぶん多いかなあとざっと見た感じ、経験則でしかないけどそう思います。

 

でもぼくから言わせれば、コミュニケーションって、先生へ質問攻めにする「なぜ?どうして?」のやり取りとか、先生が僕の頭のこと、理解のスピードを知っているからこそ、あえて鍛えるために早いラーニング法を意図的に利用したりして、それらのやり取りを通じて成長していく過程の中に、十分コミュニケーションが含まれてる。

少なくとも僕にとっては、意図的におしゃべりとか友達を作るとかそういうことなんかする必要が無くて、こうして自分の理解を追求していくことをすれば自然と会話になった。先生だって僕に勉強法を教えていく中で、僕独特の理解の仕方があることを知っていくし、その「特有の世界観」が分かっていくからこそ、人の好みや、絶対に嫌なこととか、その人の魅力とかが見えてくるものだなあと今では思っています。

 

で、話を元に戻しますと、僕はとっても理解が遅い。全体を把握しようとしすぎて、処理速度が追いつかない。ほら、すごい大きい画像をあまりスペックの高くないコンピュータで表示しようとすると、描画速度が追いつかなくなるのと、ちょうど似ています。

 

世界って大きいです。たったひとつの学問でも、それは常に世界という大きなこの未知にあふれたよくわからない現実のことを背景にして、語られています。何かを理解しようとし、分かろうとしてきた。僕も同じです。ここに生まれて、わけも分からず、知らないことばかりで、いったいここが何なのか。人の世とは何なのか、人間が作ってきたものは何なのか、どんなルールや仕組みがあったのか、今は何をしているのか、本当に複雑怪奇です。覚えようとすると脳みそがもう落ちます。しかし知りたい。だからゆっくり落ちついて、脳みそをうまく冷やしながら、処理速度の限界ぎりぎりを使ってやるんです。

そのために他の雑多な情報がそこで入ってきてしまうと脳みそはエラーを吐きます。容量を超えて、処理速度が一時的にがくっと下がってしまう。たとえば、友達のひそひそ声とか、外からの物音、喧騒。それから他人の髪をかきあげる仕草だとか、目線の動きとか。少し下品なところで言えば、魅惑的な女性のあちらこちらの体つきとか。

 

あんまりいろんなところから情報がやってきていると集中が分散してしまう。それをコントロールできればいいけれど、それよりも情報をひとつにさせる。他の情報を遮断できる環境を作ったほうが脳みその負担、ストレス、負荷的にもそれが一番いい。

 

だから僕はいつでも自分第一で、自分にとってより良い環境を作って、自分の能力がもっとも活かせるように、魅力を伸ばせるように、つまりみんなと協力して共存できるようにしてきたつもりです。

 

でもいつからか。

辛いこと、苦しいことを経てその考えにも確信が持てなくなっていった。

 

そして、後輩ちゃんはそのことを言っていたのだと今になって思うのです。

僕が「どうしたらいいんですか」という問いに答えられなかったとき。

僕はすっかり自分が何をしたかったのか忘れてしまっていた。生きていくために己を捨てようとしていたからです。自分に合わせた環境を作っていく、そしてもともと持っていたような魅力を、能力を伸ばしていく。それが現実を知れば知るほど、夢にしか思えなくなり、自信が持てなくなっていた。

 

でも、夢ではないんじゃないかな。

だって、この頭はそれ以上の処理速度を目指すより、時間をかけて集中させてやれる環境を作れば本当にうまく働いてくれるし、そのときの僕の顔ってちゃんと和らいでいて、柔らかな表情になってる。

 

最近は、それじゃダメだ。もっと強くならないと。それじゃ甘い、生きていけないって、社会を目の前にして、焦っていたのかもしれません。こんな生き方、できっこないんじゃないのかって。

どんどん表情は固くなるし、怖い顔してるし、悲しそうで苦しそうな顔になってて。

 

先生たちは僕の可能性を信じてくれた。

僕自身が今度は、僕を信じずにいてどうする。

 

時間と未来を作る。僕の特性に合わせてチューニングして、僕の持っている能力と、素質、魅力を伸ばすのはきっと間違いなんかじゃない。