ちゃんと2本咥え入れろ~(自然の摂理)
いやぁ、虚しいですねえ、今日も。
その虚しさって本当になんとかならんのか、という話。お前お釈迦様みたいなことしてんな。
虚しい時に限って何かしたくなる。いや、逆ですね。虚しいからそれをどうにかしたくて、動きたくなる。いつまでたっても慣れませんよ、本当に。
ここで動いたってどうしようもないというのに、どうしても静観してられないんですよね。瞑想は素人にはたぶん向いてないです。(というかあれは虚しさ自体をどうこうするものじゃ)ないです。
まあ、働いてしまえばそれも先延ばしにできるんですが、それじゃ気にくわない。
実際、何かしてれば人間、そんなことを考えずに済む。
それも分かってるんですけどねえ。そのために何かイベントを配置したり、どこかへ出かけてみたり、働いてみたり、それじゃ虚しさに振り回されてるだけじゃないですか。
この虚しさを何とかしない限り、ずーっと何かに利用されたまま。僕はそれが嫌です。だからこの虚しさをいつも何とかしようと考えてるんですが、その考えることがすでに虚しさから生まれている「何とかしよう」という働きであって、虚しさから逃れられていないのです。いやはや参りましたね。
だからこの世は悟り、すなわち「差取り」だって話です(激うまギャグ)
いやほんとお釈迦様が言ってるんですよ。もっと胡散臭くなりましたね。
お願い信じて、とは言いません。胡散臭い、宗教臭いと思って聞いて下さいまし。
そのうち分かるさ。
差によって生じる、それが喜怒哀楽。感情。
比較、相対、比べっこ。差をとってみて世界は決まる。
お腹が空いているから、食べ物がおいしくなる。
疲れているから、寝るのが楽しみになる。
働くから、働かないことが嬉しくなる。
喜ぶから、哀しみが分かる。
怒るから、平穏の静けさが分かる。
人間ってそういう生き物なのさ。
両天秤が左右にぶんぶん振られながらその差を理解する。
片側に居る時に、もう片側のことをさらに深く理解し、また片側にうつった時、その反対の側をもう一度深く理解する。そうやって往ったり来たりを螺旋階段のようにグルグル回りながら上がっていく。
だから思考もグルグル回る。
それらの自然な営みが本来の人間の姿。
それを人間たちは良しとせず、自らに与えられた「自由意思」を使って自分たちの存在をもっと善く、もっと改めようとした。
自然の営みを排し、片側だけの勝者だけの世界を求めた。
蜜の味をしめた人間は、もう一度反対の側へ進む理を嫌うようになった。
いつでも蜜の味をかみしめていたいと願うようになった。
そして恐れと不安が生まれた。
ま、そういうことなんです。この世は比べっこ。おk?
虚しさが出てくるのはそれらの比べっこが過剰に抑制されているから。
要するに本来の姿に戻せば万事オッケーってことです。
ここで過ごしにくい、生きにくいと思ってるのはそれ感覚的には当たり前っすよ。
特に、小さい頃から、できないことが多かったんじゃないですか?違いますか?
みんなの話についていけなかったり、教師の授業が理解できなかったり、「追い付かない」ことが多かったんじゃないですか。違うならいいですが。
置いていかれる生活の中で生きにくいと感じたなら、そこでは無自覚にできないことを容認してない、片側の天秤を排斥してるってことです。
小さい頃から「排斥される側」だった。だから片側のバランスを排することに敏感。
天秤が片側だけしか望まれていない場所が多ければ多いほど、過ごしにくさと生きにくさを感じる。
生きにくさにも理屈があるんですよ。彼らはただわがままを言ってるだけじゃない。
片側の天秤に飼い馴らされた人間にはそれが分からない。
排斥される側の感覚なんて知りたくもないのだから。
ま、それも今片側のバランスが歪すぎて自壊し始めてるからそんなことは放っておけばいいよ。ってことらしいですが。確かにそうかも。倒壊に巻き込まれないようにさっさと逃げておきましょ。
そうなった先の未来、ようやく待ち焦がれた元のバランスに戻れるわけです。
いやあ長かったなあ。ほんと。