優しいホモたち

この辺にぃ、急に虚しさを感じる人たち、来てるらしいっすよ!

淘汰される音に

 

ラの音。

 

バイオリンのA(アー)線の音。

 

素敵な音ってなに?

綺麗な音ってなんだ。

 

先生と一緒に特訓したのです。

ひたすらにA線をかき鳴らし、素敵な音を耳に入れ込む特訓を。

 

これは、素敵ではない音。

じゃあこれは?素敵だけどまだ素敵になれる音。

じゃ、こっちは?これは全然ダメ。

 

さて。

素敵な音。素敵な和音。素敵な演奏バランス。

共通するのは、はまると気持ちがいい。心地がいい、はまった音がする。

理屈で言えばハーモニーを追求しているわけだから、当然、はまれば気持ちいいに決まってる。

これは理屈なんか知らなくても、プロでもアマでも関係なく「分かる」感覚がする。

 

これが音の素敵なところ。

 

その理屈を持って、良い音というものを感覚で知っている先生について教われば、音は見違えるように綺麗になります。これも体験済み、体感済み、客観的に見ていてもそうです。

 

じゃ、その理屈って?

音を出すために、僕たちは必ず身体を使います。音に限らず、僕たちは何かをするとき、テレパシーや念力によって、もしかしたら場の雰囲気を偏らせることはできるかもしれませんが、今のところ、念じただけで、バイオリンの弓を動かして演奏したり、音を出したり、自分の声を相手の頭の中に直接届けるといったことは出来ていません。

 

身体の動きを最適化、スポーツ力学、物理の論点から、身体の動かし方で最善と思われる力の運びを身につけるだけで、これまた、作業がぐんと変わるんです。

楽器で言えば、音色がまさに様変わりする。本来の持っている音により近づいているような感覚です。

 

今、楽器のレッスンの最先端は、そういう方向にシフトしてきているようです。

 

重力や、間接部の重さのバランスなどから身体の操り方をマスターすると、身体をうまくコントロールすることが出来るようになる。すなわち、音のコントロール精度が上がるということで、実際その理屈どおり、音は劇的に良くなる。

 

そこまでやって練習してみないと、センスがあるかどうかなんて判別できないんじゃないかと僕は思うんです。

普通の人はそういう基礎の基礎の部分すらままならなくて悪戦苦闘する。

そこが体感で分かる人がセンスのある人だって、それはそうなんですけど、そういうのを「天才的」と呼ぶわけで、限られた人にしかできないことだ。極端すぎる。

そういう限られた人と比べて、センス無いって、当たり前だ。落ち込む必要すらない。

そんな極端なところと比べていちいち落ち込んでたら、世の中極端な天才なんて実はうようよいるんだ。上を見てもきりがないし、下を見てもきりがないんだ。

 

でも比べちゃうよね。だって勝ち負けで勝負の世界だからさー

淘汰されちゃうもんね。たいていの凡人は淘汰される運命にある。

それが今の世界の法則。

比べるなって言うのは実はおかしなことで。

比べ物にならないくらい、お前の見所と強いところを見つけないと一生比べ続けることに苛まれる、それがこの世界だ。

 

お前がいくら素敵な音だと言って、それがお前のものでしかない唯一の音だと、みんな分かっているけれど、その唯一の音が売れるかどうか、生き残るかどうかは別のこと。

だから、僕は資本主義というゲームがまかり通っている今のシステムについて夢で戦うことをおすすめしない。

それぞれが特別でそれでいいんだ、なんてなまっちょろい世界ではないから。

そういう仕組みにはなっていないから。

 

ということで、理屈上、最適最速の練習法はあるんだから

それを試してみてやってみて無理なら、無理ってことなんじゃあないかなあ。

そこまでやってみて初めて、ああこりゃセンスねえなと分かる、くらいでいいんじゃない。

 

となるとさ。これもう運だよね。

人間って100年そこらしか生きれないし、睡眠時間と自我に目覚めてない時間とか老人で活動時間が減るとか考慮すれば実際の活動時間なんて大した長さじゃないんだからさ。

 

ということはさ

頑張る頑張らないとかくだらないこと言ってないで。

生きること自体、長く苦しいように見えて、自分の力だけでやることやろうと思ったらえらく短いんだからさ。なんていうのかなぁ。

 

人生大した長さじゃないよ。実際自分の才能を引き出そうとして、意図的にその努力を続けたとして、見つかる確証はないわけだし。やってみないと分からないよね?

そのやってみる、っていうのだって、1分や2分やってみて、ほいって判断できるものじゃないよね。1年2年続けてみて分かることもあるよね。

だから浅はかなんだよ。才能を見つけようだとか、そういうことを自分でやろうとすること自体。

 

とりあえずやってみる。

あとは何とかなる!

 

苦しむと時間が長く感じるからさ、人生が長いとか苦しんでる人ほど言っちゃうんだけど。

才能なんか見つかればラッキーアイテムくらいのもんだよ。頼りにするもんじゃないな。

人生っていうゲームも難関、難所だってあるわけだけど、これもう無理でしょ・・・みたいなステージとかさ。でもしょうがないよね。リセットはできないし、セーブはできないし、いつも一発勝負だし。これもう無理でしょって、思うようなことがあるといいかげん、笑えてきちゃうでしょ。

 

おかしい。難しすぎる。

クリア不可能なんじゃないの?

 

コントローラーを投げたくなったら投げても良い。

だけど、投げる前に思い返して欲しい。

 

これはゲームだ。

ゲームに本気で怒るやつがいるか?

怒ることも楽しみの一つとしてやってんならそれでいいけど

俺はゲームは楽しいからやってるんじゃないか。

暇つぶしになるからやってるんじゃないか。

 

人生はゲームだ。ということは楽しむためにやっているのだ。

ということは、暇つぶしでやっているのだ。

 

それにしては難易度が楽しめるってレベルじゃないだろこれっていう場面も多いよね。人生って。

通常難易度なのに、やりこみゲーか縛りプレイみたいになってるんだけど!みたいな。

 

分かってんじゃん。

 

やりこみしちゃってるし、縛りをいれちゃってるんだよ。そういう時って。

一度疑ってみると良い。縛りプレイみたいに感じたらたぶん縛りプレイしてるよ。

 

変り種で言えば職業こだわりプレイとか。処女童貞エンディングとか(笑)

不殺プレイ、無宗教プレイ。低レベルクリア、ひたすら逃げてクリアとか、さ。

 

例えば、夢とか、あるよね。俺は絶対このプレイでバイオリン職人になるんだ!みたいな。

この時点で職業縛りプレイでしょ。縛りで楽しいなら良いけど、つまんないなら変な縛りしないほうがいい。

 

人生は楽しみでやってる。って意味が分かると少しは気楽になれるかもしれませんねぇ。

「めんどうくさい!」もしかしたらそれ、脳みそがうまく働いてない状態かも!

 

 

めんどくせえ!!」

誰も一度や二度と言うまでも無く感じたことがあるであろうあの気持ち。

 

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あの感情は脳の問題だった・・・?

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なんでもかんでも先延ばし・・・

面倒くさいから今はいいや。

明日から頑張ろう。

 

夏休みの宿題は最後に一夜漬け

就職活動もなんだかやる気が出ない。

分かってんだよ、分かってんだけどなんだかやる気が出ない・・・

 

そして最後までなあなあにしてしまい気付いたら人生後悔だらけ。

それでも本腰が入らない。自分ってダメな人間だ。

そこまで思うのにどうしても身体が動かない、ますます追い立てられるように

現実が迫ってくるように感じる。

余計に自分がダメに思えて、悪循環の繰り返し・・・。

 

なんで自分ってこんなに意思が弱いんだろう?

 

それって脳みそが上手に働けるようになっていないから、かもしれません。

 

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アスペルガー症候群

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種明かし。
これは俺の事であり、同じ様な特徴をもった人間がある比率で存在しているというなら、俺たちは未発見の発達障害だ。
それは現代医学ではADHD(注意欠陥・多動性障害)の不注意優勢型とされているが、もはやADHDという括りで我々を総称するのは正しくない。
あえて言うなら「逆アスペルガー症候群」とでも言うべき、脳の男性化に問題がある事で起きる発達障害だ。

matome.naver.jp

 

引用記事です。

「逆アスペルガー症候群」とはこのまとめ作者による通称の呼び名です。

どうやらこんな特徴があるらしい。

 

引っ込み思案・恥ずかしがりだが、他人の評価が気になって仕方なく、コミュニケーションに餓えている。

短期記憶力が弱く(さっきまで考えていた事を思い出せない)、不器用でドジ。

学業成績は平均すると平均以上だががたつきが大きく、地歴や理科は得意、数学は苦手。

想像力と情動の塊。

哲学的な疑問(「私はなぜ私なのか」「宇宙とはなぜ存在するのか」「人間とは何か」など)に本気で悩んだ事がある。

ネットや才ナニーなどを止められない。でも金を使ってまで娯楽するのに抵抗がある。

他人がなぜ怒るのか理解できない。

動物好き。

悲劇を美しいと感じる。

楽しげ・王道・多数派の物事を好まない。

多数の人々は自分を(肉体的または精神的に)醜いと思っているだろうが、自分では密かに美しいと思っている。

イメージカラーは薄紫とかそこらへん。

顔の掘り(法令線やエラ)がなく、何歳になってもあどけない(オッサン・オバハン化しない)。

体毛はたとえ多くてもふわふわしていて剛毛という感じがない。

男は手足が長く性成熟が遅めで声が高い。女は背が低く性成熟が早め。

「普通の子」と同じを強要されて失敗したため「普通」や「空気読め」に敵意を感じる。

「頭の中が空っぽ」になった事がある。

 

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根本は脳みその伝達物質の分泌の問題

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平たく言えば、脳みそが「幸せを感じる経路が塞がってしまってる」のが原因。

人間というのは通常うまく幸せを感じられるように、やる気が適度に出るように、脳みそが勝手にバランスをとってくれているわけだけど、何らかの原因でそれが阻害されてしまった状態が固着している、だから脳みそをうまく働かせられるように、経路をつなぎ合わせよう!ということです。

脳みそのバランスをもう一度物質的に整えれば、その分泌も元に戻るということですね。

 

ということは、発達障害かどうかはさておき。

現に自分の生活や人生が立ち行かなくなる、うまくいかなくなるほどに何かしらの問題行動が噴出しているなら、それは単に「脳の経路をつなげばいいだけ」の問題なのかもしれません。

 

なんとかなる、やればできる、甘えている。

精神論だけではどうしても無理がある。

 

それでは説明がつきません。

 

がんや結核やらい病などのかつての不治の病と言われていた病気が祈祷や気合や精神論で治すことができないのと同じで、「脳の器質的な問題」なのであれば必ずアプローチする方法があるはずです。

 

それに脳の器質的な問題ならなおさら、そんな気合だけでどうにでもなるものではありません。そうではなくて、何かしらの原因がある。

 

その原因が要するに、伝達物質の阻害が起こっている、らしいということです。

だから小さいころはどんどんやる気とか考えなくても、勝手に楽しいことは取り組めたのに、だんだん時間が経つにつれてその阻害が固着化されていくので、やる気が鈍っていく、幸せを感じにくくなっていく。楽しいことでも億劫に感じるようになる。

 

明らかにやる気が足りないとかそれ以上の問題がそこにあるでしょう。

いつまでたっても動き出せない、それは気合の問題じゃあ、ありません。

それじゃあまりに暴論です。

 

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トレーニング法が存在する

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理屈から言えば阻害されていた脳の経路がバチッとつながればいい。シナプスの電流がバリバリっとつながっていくように、脳みそのつっかえている部分を鍛えることである程度、やる気や気合が復活させることが出来る。ということです。

自然と掃除してたり、人と話していたり、課題を遂行したり。

面倒くさいといいながらも動き出すことが出来たり、抱え込まずに適度に愚痴を言うことが出来たり、とにかく「自然」に出来ることが増えていく。

すなわち、それはあなたの脳みその状態が「自然」の元の状態に戻ったということでは・・・?

 

まとめ作者さんが修行法を伝授してくれてます。

 

セロトニンの材料であるトリプトファンやビタミンC、ドーパミンの材料であるチロシンやビタミンB群を摂る事を心がける。

感情は飾りではない。行動の優先順位を数値化した指標であり、感情を感じる事は脳細胞の成長シグナルを受け取っているという事でもある。

・沢山の良い味や香りを体験する。

人間社会ではどんな視覚・聴覚刺激または異性経験なんかが人の価値を決めているが、嗅覚味覚経験の豊かさも我々の経験となり鬱状態を打破してくれる。

・原付で100km位(帰りが心配になるほど)走ってくる。

激辛を食べてもがき苦しむ。

これは知足という概念を我々の心に刻み込むために行う。「懲りる」事でネガティブフィードバックを脳内に作る事を学ぶ。

・食事・筆記・才ナニーを両方の手でそつなくこなせる様練習する。最初はゆっくりでいい。

・Posemaniacs.comで両方の手でネガティブ・スペースをやる。

お絵かき訓練です。そんなに難しいものではありません。なぞるだけの作業です。ネガティブスペースというのは、ある図の輪郭をなぞるのではなく、そこを図としてとらえてなぞる手法です。

と言っても知らない人には意味が伝わらないと思うので見たほうが早いですね。

 

↓こちらで見ることが出来ます↓

Posemaniacs.com » ネガティブ・スペース・ドローイング - 絵の練習用ポーズモデル

・フリーハンドで直線や円を描く練習。もちろん両手で。

これらの修行は小脳のGABA作動性の抑制系の神経細胞であるプルキンエ細胞(大脳をフォローする大事なツッコミ役)を育て、左右半球を繋ぐ脳梁を太める意図がある。

・Egg a ZyoutatsuのIchikio!やIchikio MO-DAをやる。

これは

Egg a Zyoutatsu

というサイトさんで無料で遊ぶことの出来る脳トレゲームのようなものです。ブラウザで遊べます。

www.eggazyoutatsu.net

・n-back課題をやる。

これらの修行は萎縮した海馬を元に戻し、短期記憶能力や映像記憶能力を成長させ治す意図がある。

 これも同じくミニゲームです。普通の人でもレベルが高くなってくると難しいかもしれない。5分感覚とかで休憩を挟みながら、あまり長いこと集中してやると逆に疲れちゃいますから、これも息抜き程度に、脳みそに栄養をあげると思ってやるといいです。

12234567890.web.fc2.com

 

 

ヴィパッサナー瞑想(自分が今何をして何を思っているのか脳内実況する)

これは前頭連合野を鍛えてメタ認知能力を作ったり、外部からの刺激と言語(音声と文字)記憶を結びつけて理性を作る意図がある。

 

詳しい方法が載っているサイトさんはこちら!

ヴィパッサナー瞑想 実践方法

 

 

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まとめ

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いまいちやる気が出ない。なんだかおかしい。

うつ病と言うほどでもないけど身体の調子が変だと思う。

どうも社会に順応できない気がする。実際ぎりぎりだ。

 

いったいなんだこれは。と思ったらそれはもしかしたら、今までの何らかのことが原因で脳みそがうまく働かない状態が固着してしまっているのかもしれません。

ということはそこを取り除いてやれば、また以前のように自然とやる気など考えずに、やりたいことをやれていたり、家事掃除洗濯など、身近な生活の先延ばしがぐぐっと減るかもしれません。

いのちだいじに

 

さぁてと。

 

人の価値とはなんぞや。

価値を与えるとはなんぞや。

 

考えてみましたねぇ。

 

どうやら、人は誰かに何かを与えることで、成長する生き物らしいこと。

現在はお金儲け、お金回りの良さがどうやらそのバロメーターになっているらしいこと。

 

つまりー

自分がどれだけのことを、どれだけの人たちに与えることができているか=お金儲けの大きさ、らしい。

 

ってことは。

自分の魅力や出来ることを最大限活かしていけばいい。

それをやってるうちに、どんどん与えられることがたくさん増えていけばいいわけだな。しかも本来自分の持っているものを活かしているわけだし、無理のある努力をしているどころか、自分に備わっているものを伸ばしていると考える。

 

無理のあることをしんどい顔して苦しい顔してやっていても、そんな死にそうで余裕の無い人のところに、果たして人は魅力を感じるかいなって。

 

つーことは、

自分を大事にする、ってことがお金儲けと関係してる、のかな?

ちゃんと自分には何が出来るのか、何が得意なのか、どんな魅力があるのかってことが分かっていて、それを持ち味に出来ている=自分を大切に、大事にしている。とも言えそうやね。

自分っていう存在がどんなことをやっていける存在なのか、自分でも理解してあげることができている。自分という存在をひとつの個として認めて、分かってあげている。

 

それを、「自分を大事にする」というのではなかろうか?

 

はてこんなこと学校で習っただろうか・・・。

 

得意じゃなくても、苦手でも、やらなくちゃいけないことはやるんだ。

みんなやっているんだから、みんなができたんだからお前にもできるはずだ。

途中で逃げるな、諦めるな。ダメな人間になってしまうぞ。

 

なーんてことを「教わってきた」のならそれって自分を大切にするって事とは真反対の事だよね。やりたいことなんか、分からなくなるの、当たり前なんじゃないのかな。

いやいやそうだ、今は学校批判するために話してるわけじゃないので、ここまでにしておくけどさあ!今までの「教育の常識」っちゅーやつにはいろいろ言いたいことがあるんだ。

 

でね。

「自分を大事に出来る」=自分には何が出来るのか、何が得意なのか、どんな魅力があるのかってことが分かっていて、それを持ち味に出来ている。とここでは定義しておくとすると、これすっごく大切なことじゃないかなぁ。

 

それが将来お仕事になるかどうかとか打算的なものではなくて。

自分が誰かに対してもともと出来ることをやっていたら、それが仕事になった、って考えたほうが自然じゃないだろうか?それはおかしな考え方だろうか?

 

そっちのほうがずっと豊かな考え方だと思うのは僕だけだろうか?

 

その自分に出来ることの規模の大小はあれど、その人の持っているものを確かに誰かに「贈る」「与える」ことをして生きているって素晴らしいことじゃあないだろうか?

 

たとえ小さな僕のプレゼントでも、企画した小さな飲み会でも食事会でも、きてよかった、もらって嬉しかったと言ってもらえたら、素敵なことじゃないだろうか。

小さなところに座して、開き直っていいとかいうことではなく、今出来るレベルの事でなにかしらをやるってこと。今のレベルで誰かしらに何かを与えることを考える。

 

例えば僕なら何かしら会を開くとかできる。お疲れ様会でもなんでもいいので。

そうすると、まず来てくれた人たちに対して来てくれてありがとう、って思います。

 

わざわざ時間を割いてくれてありがとう。

その使った分の時間、絶対に損させないから。

きてもらったからには絶対に楽しいって言ってもらって帰ってもらおうか!

 

根拠の無い、楽しんでもらうんだ!という確信です。

 

そして楽しんでもらうのは実は難しいことじゃない。

気の合う仲間たちを揃えること、ここが一番肝心だ。気の合わない人とも仲良くなれるってことは大切なこともあるけどね。わざわざ気の合わない人を誘う理由は、あんまりないでしょう。

そして美味しい料理と美味しいお酒と綺麗な雰囲気。そして、何よりも、頑張った!お疲れ様!という会は、お互いを労わる気持ちで溢れる。雰囲気というか、周波数がそっちに合わさって、お互いに温かい言葉を贈りあうようになる。お前も頑張ってるよな、君ってこういうところが素敵だよね、よくやってるよね。とかってね。

 

気持ちの良い言葉を言い合って帰ると

これはもうなんだか知らないけど楽しかったなってことがとりあえず記憶に残るんです。

それを狙ってます。僕自身も参加してると楽しくなって意図なんか忘れちゃうわけですけどね。

 

まあ。こんなことが仕事になるかどうかさておき。飲み会の幹事くらいは出来そうですな。

こういうようなことも、今の僕が誰かに贈ることのできることのひとつです。

ちっちゃくても何人かで、仲間と楽しい会を開く。ちっちゃなイベントを開く。ゲーム大会でもいいし。

 

それが金になるの?ってそれ自体はお金になんないけどさ。

自分が楽しいと思うことを、好きなことをやってると、不思議と人間の魅力が増す、らしいですよ。その波長が、ツキを呼ぶっぽいですよ。

そのことを、人は魅力って呼んでいて、また会いたい素敵な人だなって思う、かどうかは知らないけれど!(笑)

 

少なくともそんな自分が出来ることで人に何かを贈って楽しんでいる人が、お仕事をしているとき、その「楽しんでる感」は十二分に魅力に感じられるのではなかろうか。私もこの人と一緒に、飲み会やりたいな!この人の仲間ってきっと素敵な人なんだろうな!

ってのはちょっとピュアすぎるかな・・・(笑)

お金儲けはした方が良いに決まっている

 

決まってます(実感)。

と思います。

 

世の中、世界の法則としては、そうやって成長すればするほど楽になっていく。

というのが真実。らしい。ふーむ。

 

成長って何だよ?

 

仕事をしてないなら、仕事をする。

定職に就けないなら、アルバイトでもする。

アルバイトも出来ないなら家の手伝いでも庭仕事でもいいから何か仕事をする。

 

「人に何かを与える」

 

ことをしていくと、成長するのが人間という生き物のようです。

何かを与える、提供するというのは、仕事の役目でもあるので、多くの人は仕事=成長だと言っている。

 

と、すると、アルバイトでも、定職、正社員でもやってることの本質自体は同じ。

 

ってことは、きっかけはアルバイトでも正社員でもなんでも、じゃあ自分がどうしたら、お客さん=提供相手に上手く立ち回ることができるか。自分ができることは何だ?ってことを追求すればいいのかな?

 

例えばー・・・

「老人ホームやデイケアで、現場で働いているスタッフ」

ならスタッフとしての役目はどんどん会社を儲けさせること、じゃないですかね?

営利目的でボランティアでやってるわけじゃないんだから。利益追求。

 

む?って感じますかね。利益追求って響きがなんか嫌、みたいな。

ふつうに考えて、正当に儲ければいいんじゃないですかね。

 

お客さんの回転が速くなって、利用者が増えてーってどんどん考えていって、

正当にお金儲けが、金回りが良くなっていく方法を考えたらいいんじゃないですかね。その上で、労働者としての、雇われる側としての役目を果たすって、すごく健全じゃないかって思うんです。

 

たとえ「アルバイト」でも、飲食店なら。

そのお店が発展するように、金儲けが上手くいくようにって考えれば・・・

お客さんがまた来てくれて、再来店がたくさんあって、毎月新規のお客さんが一定数とれるように、とか無理難題を考えるわけですよね。それを諦めちゃったり、もうこのくらい儲かってるし、今は何もしなくていいかとかやってたら、絶対にお金儲けになるわけないじゃないか。

 

で、その発想があるなら、

どうせなら自分でお金儲けの仕組みを考えてやっちゃおうか、っていうのが自分で起業したり、ブログで飯を食っていくぞとか、覚悟した人たちですよね。

お金儲けのことをがんがん考えてないわけないですよね。

 

その「ガンガン」という趣向性が要するに成長、ってところと大きく関わってる気がしますよ。いかがでしょうか。

 

でも、その増やすとか、新たに需要を作るとか、そこらに限界がきてるような、きてないような時代で、今度はどこに価値をおいて、お金儲けしようか。というかお金儲けをとことん考えてるような人だからこそ、誰かにどんな価値を与えることができることを考えられるってことなんじゃないですかね。

 

すなわち、お金儲けをとことん追及した先に、お金にこだわらない世界、みたいなのがあるんじゃないかと、思うんです。あ、もちろん“正当な”お金儲けと、カッコづけですけどね。

 

となると、純粋に、また来たい、またやりたい、また頼みたい。

人が集まる。楽しめる。新しく来てくれる。

ってことは、どんな時代でもその「またきたい」という「また」の魅力をつくり続けられる人が最強なんじゃないですかね。飽きない。飽きさせない。究極の「商い」じゃないですか。まさに。

 

で、現在のお金儲けってのはその、「また」ってのを練習、訓練するのにとーってもいいんじゃないですかね。たとえ、一流の人には適わないとわかっていても、そんなこと関係なく、今の自分のレベルで戦っていけばいいんじゃないですかねぇ。

 

今、たった1人のお客さん取るのに精一杯なら次は2人とる、とか。そのたった1人の人がいてくれてよかったって、そのたった1人にきちんと感謝できる。それを他の人にもたった1人にしたような感謝と同じ感謝をしてると、もっとありがとうって思うじゃないですか。ああ、最初のあなたがいてくれたから潰れなくて済んだよ、よかったありがとうってほんとに感謝できるんじゃないのかね。

 

そういうことが分かってるならやれば?って話ですね。

ほい。じゃやってみましょう。いいかげん俺はバイオリン!とかあほみたいなことほざいてないで、働こう。バイオリンを作る暇も作って、働く時間もつくって、感謝の仕方と働き方を学ぼうじゃないか。

そして「また」という魅力の勉強をしましょ、そうしましょ。

 

人の価値

 

ってのはなんじゃろな。

 

自分が誰かに何かをしてもらうことは望むけれど

自分が誰かに何をしてあげたいか、何をしてあげられるか。

 

誰かに価値を与えた経験って、そもそもあるんかいな?

そこが希薄だと、やりたいことも分からんのではなかろうか。

 

そして今すぐに出来ることと、今すぐにはできないこともある。

後は、その誰かに何かを与えた経験の回数時代が少ないと、自分の喜びを勘違いするかもしれない。

 

僕が今までやったことは・・・

プレゼントを贈る

イラストを描いて贈る

手紙を書く

歓迎会を開く

飲み会を開く

リーダー役を引き受ける

 

夜逃げの準備を手伝う

毎朝友人を起こしに行く

 

こんなもんかな?ふうむ。思ったより少ない・・・。

でも何かをプレゼント、贈る、って気持ちがいいものですよね。

 

まず「プレゼント」「手紙」

部活の頃にプレゼント交換というイベントがあって、そこで1年間の想いをつづった手紙を交換したり、学年からのプレゼントを贈りあったりする素敵なイベントがありました。楽しみにしてる人もいれば、手紙やプレゼントなんて・・・っていう人もいるけど、なんだかんだ自分の思いを内に秘めてる人も多い。それに自分の気持ちを考えてもらって贈られるプレゼントや手紙って、いざもらうと嬉しいものです。ちょっとくらいいじけてても、やっぱり嬉しいですよね。想いを交換しあうって素敵ですよねえ。

あ、あとはオケの合宿のときに、メッセージカードを巻きつけた栄養ドリンクを差し入れしてみたりとかしちゃったりして。

 

はい、次はイラスト。

誕生日プレゼントに、親友がはまっている女の子キャラクターをリクエストさせて、絵の練習がてらハッピーバースデー!とイラストを贈りました。今でも保存してやがります。とっても嬉しかったんだって。僕は絵の練習になればいいや、くらいに思ってプレゼントしたのに、すごく喜んでくれてて逆に困惑すると共に、プレゼントやイラストの強さを再確認した経験が。うんうんなつかしや。

あと、後輩ちゃんにも「後輩ちゃんのデフォルメイラスト」を何を血迷ったのか12月25日のクリスマスに贈ったこともあります。一日だけ後輩ちゃんのLINEのプロフィール画像が僕のイラストに!

 

次。歓迎会を開く。これも部活より。

新人の歓迎会。自分たちの歓迎会。そういえば僕はイベントをやる側も、やってもらう側も両方好きかもしれない。

 

飲み会を開く。これはー、酒が飲みたいだけの建前でやってみた。

でも女の子相手に飲み会を開いても、愚痴大会になっちゃうので辞めた(残念)

というか彼女らは酒が無かろうとあろうと特定のメンバーで寄り集まれば本音に見える本音ではない建前を使ったり、本音を語る隙をまったく見せてくれない。お酒がその助けになれば・・・とか思ってたんだけど、余計なお世話だったという結末。

というか酒を飲むために酒を飲むんだよ!!って理屈で説明することほど風情がないことはないと思うんだ。どうだろうか。

 

リーダー役。人のまとめ役をやったことがある。大学の卒業研究のゼミ長だ。

人間マネジメントは、うまいこと空気を読みながら、うまく空気のように当たり障り無く、でも本筋を見失うことなく人をまとめあげていく力が必要。カリスマが足りないと痛感した。あとスルー力(りょく)ね。

 

お次2つ。

夜逃げの手伝いをすると感謝されて焼肉を奢ってもらえる、以上。

毎朝友人を起こしに行くと、朝ごはんとフルーツを食べさせてもらえる、以上。

 

やっぱりなんだかんだ僕はイベント、好きなんです。企画するのも、運営するのも。参加するのも。運営だって別にすべて一人で手配するわけじゃないし、人手だって、仕事だってあるわけだし。飲み会イベントひとつにしたって、お店の手配、人集め、プレゼントの用意、とか。本格的にやろうと思えばイベントとして楽しめちゃいますよねぇ。

 

そして歓迎会とプレゼント交換はかれこれ4年間も引き続きやっていた、ということになりますが、改めて1年の締めくくりにしっかり感謝をしたり、思ってることを書き綴ったりするって良いことですよね。

 

贈りあうってなにも難しいことじゃあないです。ちょっとしたことでも、その人にとってはすごく嬉しいこと、自分はそうでもないけど、もらった側は嬉しいって実はよくあるんだなぁというのが僕の実感。たとえゴミでも好きな人からもらうと嬉しいですもんね!そこらへんに落ちてたヘアピンとか!落ち葉、葉っぱとか、ペットボトルについてたおまけ小物とかさ!

物自体は嬉しくないけど、もらったという事実が嬉しいのだ。人はそこに喜びを感じることもできる生き物なのだ。

いやいやでもさ。どうせもらうならいいものが欲しいよってのは正常な欲求だと思う。

 

で、案外喜ばれた。それなら良いけど、その逆になるとかなり残念ですね・・・(笑)

 

全然嬉しくないけど嬉しがるふりをされるとか、もらった側が嬉しくないとか。

それプレゼントが押し付けがましいか、チョイスとか渡す雰囲気やセッティングに問題がありそうです。好きでもない人から手作りの何かしらをもらっても苦笑い、人間ってなかなか残酷です。なんでもかんでも素直に本音でしゃべりあったら、喧嘩になりますね。でも喧嘩くらいしたほうがいいよね。や、むやみやたらに争えってことじゃなくて、定期的に腑のうちを明かすっていうか、自己開示的な意味で。関係ないけどさ。

 

てめえこんなもんいらねえんだよ!気持ち悪い!って。

正直な気持ちを正直に包み隠さずぶっぱなせる女の子。かっこよくないですか。関係ないけどさ。

 

えー。軒並み、魅力的だと思っている人や、好感度が並程度の相手は、プレゼントをもらったり、何かをしてもらったり、会を開いたりしてもらうと嬉しいって思うみたいですよ。

思うみたいですよ?そりゃそうですよね。そうに決まってますよね!

 

ふーむ、どうもひとりぼっち歴が長いと人間歪んじゃうのかなぁ。

普通イベントとかプレゼントとかしたりされたり、贈ったりすると嬉しいもんだよね。

なんでこういうことするの嫌がってたのかなあ。根拠の無い不信は病気ですよね。

ああ、やっぱりひとりぼっちは人間を蝕むじゃないか。

 

で。

いや僕は、私は・・・と言わず、1年良く頑張ったんだからとか適当な理由をつけて何かしらプレゼント!好感度がたぶん並とかそれなりに仕事だけじゃない仲間となら、そういうつながりも、ありじゃないっすかね。もっとお近づきに、下心ではなく人間愛的な意味で、親睦が深まると思います。

 

案外、仕事だけだと思ってる関係でも、ちょっとしたプレゼントとか嬉しいんじゃないかなあ。あ、これもやっぱり、人間的におかしな人だと思われていない、とか、好感度が低すぎないとかそういう前提のもとですけどね。もちろん。そういう雰囲気じゃない職場でも、人間やってみなければわからんもんです。

 

これだけが生きる醍醐味ではないけど

これも十分に生きる理由。価値にはなると思うんですよね。

働いて、寝て食って、働いて、プレゼントして、手紙を書いて、お金を稼いで、プレゼントして、会を開いて、また働いてー。みたいな。仕事場から自宅のルーチンにこれで彩が少しは加わるんじゃないかな。

 

え、俗っぽい?仙人みたいな人はなんでそうやって俗っぽいことを嫌うかなぁ。

 

この地上で、一応ちゃーんと肉体がついてるんですよ。せっかく現世にいるんだから、たいした引きこもり精神じゃなかったり、病気でもなければ俗俗(ゾクゾク)するようなことして過ごさないと、心が鈍っちゃいますよ。

 

プレゼントして、会を開いてお金をパーッと使って、また働いてーお金稼いでってこれ・・・

んー??男の人が女の人に飲み物を奢ってあげる夜のクラブか何か?(笑)

 

たとえそれでも十分に働く、生きる理由になるんじゃないかなぁ。

少なくともこの生き方を、否定できないと、僕は思うんだ。

後輩ちゃんはやっぱり愛おしい

どうか後輩ちゃんが大したことじゃないことで悩んでいませんように!
笑って今度また会えますように!

ここ最近、ずーっと後輩ちゃんのことをもやもや考えていましたが。なにをって彼女が抱えているであろう、根深いところにある本当の問題について。

でもね。
もう、祈るだけにしました。そんなことまで考える必要はない。結局、実際にどうしたらいいかを考えて舵取りをするのは自分であって、いつまでも自分がどこへ向かえばいいのか、聞いていたら自分の人生なのに、他人に舵取りを任せることになる。

だから、大丈夫だっつってんだろ!大丈夫だから、安心して自分で行き先を決めてみなっての。
人間関係とかさ、人の顔色伺うとかってのは、技術のひとつでしかないさ。

なーんて、思ってます。
まぁ、後輩ちゃん。彼女もずいぶんと、人の顔色を伺って、笑顔を作ってきて、失敗して独りぼっちになるのが怖くて、他人に舵取りを任せてきてしまってる子です。

最近会えていないので近況は分からないけど、でもたぶん、彼女も自分で気づいたんじゃないかなぁとなんとなし感じます。自分の主導権が自分になかったってことに。
怪しいですかねこの直感(笑)

ここ最近で、とにかく愛おしいからって、なんでもかんでもやってあげよう、どうにかして助けたい!とかいう気持ちがわき上がってきてどうにも僕自身も制御できなかった。

でもー、自分の人生の舵を取るのは自分です。
目的を決めるのも、行き先を決めるのも、その先で大失敗したことを後で笑って思い返せることも、自分次第じゃないですか。

僕が変にでしゃばって…ってなんかこれ親心みたいですね。この先も幸せでいてほしい、この子を愛しているからこそ、先まで見据えて…って、それはその子がやればいいことだ。そこまで望むのは愛しさ余って、それゆえの自分のエゴだ。彼女のことを愛おしく思うのは本当の気持ちだけどね。

後輩ちゃん離れ、する時なのかも。

後輩ちゃんがするように任せて、あとは信じて。
別に僕は彼女の親でもなんでもないけど、彼女のことはとっても愛おしいですから。

先の先まで見据えて、誰かの幸せや幸福を願いすぎるあまり、その強い「愛する」って気持ちを持っている人ほど、暴走しがちなのかもしれませんねぇ。

そんなに先まで見守らなくても、そこまで望まなくても、大丈夫。信じて手放すってのは、怖いことでもある、なぜならば、やっぱり失敗することもあるからだ。自分が見守ってやれなかったせいで、自分が…って、どこまでも愛情の強い人って背負い込んじゃったりしてさ。大切に思うあまり。

手放すのが怖いんだよね。でもそれって、その子を信じられないって、愛おしいその人を信じることができないと、言ってるのと実は同じことだったり。

僕は彼女を愛おしいと思ってます。
だから彼女のやることを信じています。

はー、ほんとに、親でもないのにこんなところまで突っ込んじゃって。ほんとに大好きなんですよねぇ。

初めはなんでもなかったのに、大好き大好きってあーんなに言うもんだから、人にも言いふらすもんだから、俺は仕方なく付き合ってやってるだけなんだから!

と照れ隠し。相変わらず男女が逆のこの妙な先輩後輩の関係。
これからどう転ぶか、皆様乞うご期待!ですよ(笑)

理想の上司

部活時代、ファーストトップの相方です。
彼は信頼できます。卒業までの半年勉強して、公務員試験を受けて、見事地元の消防士になりました。すごい。

すごいじゃねえよ、他人事じゃなくておめえもがんばんだよ!

声が聞こえる・・・
うんうん、頑張るぞ。

で。
ファーストの相方と一緒に運営の仕事のとき。
ぼさっとしがちな僕に対して、あれやこれやまずは言いつけるも、僕がいつまでたっても動かない。

仕事のやり方が分からないんだという甘ったれた旨を告げて、真摯に正直に相談しました。
後輩にも喜んでほしかったし。

そして彼は少し考えて、次回から今度はやることリストをメールで送ってきて、期日と締め切りをしっかりと明示して、いつまでにこれだけやること。

こんな具合に。

今月中に終わらせること!
◆賛助連絡と楽譜づくり
プルト表作成
◆後輩楽譜づくり
◆練習内容相談

で、僕はそれに対して進捗と報告をします。
まず出来そうか、出来なさそうかからはじめは入り、時間がとれなさそうならいつやるのかとか、今だけ学業が忙しいとか、お互いの都合をつけながら、期限内に達成していきました。

当たり前のことなんですが。
どんな仕事があって、いつまでに何を終わらせればいいのか?という仕事のリストアップとその思考作業。

これ、僕は最初、ぜーんぜんできなかったんです。
わからないことがわからない状態。

何をって、何があるの?何すればいいの?
どうやったらやることを考えられるの?

でもー、甘ったれた話ですが、相方がこうやってリストアップしてくれて、報連相をしてるうちに仕事の進め方が分かってきます。コツが、分かってくるんですね。

あー!じゃあ今度はこれがやらなきゃ行けないことだね、とか。自分から提案するくらいには、なれました。

だから理想の上司は彼です。

できないというよりは、やったことがなくて、右往左往してた、ってのが正しい。でも、やっぱり、いざ仕事を!となれば、これらが新しい環境で新しい業務で、新しい人間関係でやってくわけですから、僕の脳ミソにとってはここがまず難所です。

でも、ここさえ越えちゃえばなんとかなるかなって、今は思います。彼みたいな人が、仕事場にいるかって、いたら相当ラッキーだし、僕、単なる足手纏いじゃないですか。

せっかく意欲はあるのに、と久しぶりの面接を前にして、自分を奮い立たせる、年齢相応の努力をしているであろう、23歳の男でした。

のんびりすぎるかな。やっぱり、亀ですねえ(笑)