優しいホモたち

この辺にぃ、急に虚しさを感じる人たち、来てるらしいっすよ!

違和感と勘違い

僕の直感は当たっていました。

担当の先生と今日面談をする機会があり、そこでお話をして来ました。
やっぱり担当の先生もこれじゃお粗末すぎると感じていたようです。あの、いやーな感じと妙な違和感の原因はこれです。ようやく突き止めることができました。


君に限らずみんなそうなんだけど、
とにかく早めに失敗してほしいと言われました。

就職活動にあたってもそうだし
技術に向き合う態度としても
今のこの僕の学年はヤバいと感じてるみたいです。
僕の直感は別に勘違いではなかったようです。

僕がここにいたらまずい、この学校では成長できない、自分でやれることばっかりだと感じたのも間違いじゃなかったです。

はっきりとはそう明言しなかったけど、就職活動をして、自分がどれだけ通用しないのか、実感してもらいたいとは言ってました。

就職活動を通じて成長してほしい、とのことです。

なんだかなぁ。
これが現実ってやつですかね。
働ける能力をちゃーんと養っておけば、今さらこんなこと言われなくて済んだはずですが。
少なくとも、この先生に言われる前から、僕は自分の前途を見据えていたつもりです。

一度就職活動をして、企業に採用されて働いてみるという経験をしてみるといいって、すごくよくわかります。

先生の言うことが痛いほど正論だってのも理解できます。

でもなんか違う。
いや、経験をするのは大切だよ、僕だって就職活動して、採用してもらったり、落とされるとかいう社会経験、やってやろうじゃねえか!上等だ!って覚悟は出来てます。挑戦する気でいます。

周りの人間があまり危機感なく、学校に来るだけ来て、こいつらこんなんで仕事するつもりなの?って正直思うところはありましたし。自戒の念ももちろん含めて。

自分がこれからどうやって仕事にしていこうか、クオリティを高めていこうか、何をどこで、仕事として展開できるのか。能力として何を提供できるのかなぁとか。

うーん。なんていうの。
就職活動が大切!みたいにいうのは違和感があります。
働くって、しなきゃいけないんです。みんなが平和に暮らすために、穏やかに生きて、すずやかに共存していくために、働くという手段はとても有効です。

就職活動それ以前に、自分が誰かに、ここで暮らす隣人たちに何をしてあげられるか?どんなことで協力することができるのか?

ここが、そもそもの働くことの原点であり、目的なんじゃないの?

いくら理想だと言われようともここだけは譲れません。
そんなふうに、就職活動が大切みたいに本来の目的がすりかわると、制度に、仕組みに振り回されるだけだよ。働くの、きっと楽しくないよ、そんなことしても。

・・・。

僕が今まで逃げてきた理由はこれですね。
こんなことがまかり通ってしまう世界や社会から逃げて引き込もって、過ぎ去るのをひたすら待とうとした。嵐が訪れたときのあなぐらに引きこもる、正当な防衛反応です。

でも勘違いしてたみたいです。
今からでも、僕が本気でそう思い、実現しようと思えばたぶん、そうやって働ける。なんとなく、その未来の絵が浮かぶし、想像できる。

僕は思ったより冴えてるじゃあないか。
それに、まともに考えてることもできてるし、直感で分かってるじゃないか。
 
悲観するこたぁなにもありゃしなかった。
敵に打ち勝つには、敵を知り、己を知るべし。

就職活動において、真の敵は思考停止すること。
働くことの本当の意義を見失うことだ。
仕組みに振り回されて、本当に為すべきことが、なしたかったことが見えなくなってしまうことだ。 

それならどうしてそんなことになってしまうのか?

本当は「敵」の懐に入るのなんて嫌なんだけど、実際入ってみないと知り得ないこともあるもの。それに今の僕なら自分の揺らがない筋のとおった価値観を支えに乗りきることができるはずだ。本当の目的を見失うことなく、ね。

ふーん。だから、僕は逃げてたのかもね。
その本当に大切なものを、支えきるだけの信念が整うまでさ。自分の中では、分かってたのかもね。

ずいぶん寄り道もしてきたし、先延ばしにしてきてしまったけど、もう先へ進む道を見失うことはないだろう。 
たとえ途中でまた迷ったとしても進むべき、その先はもうわかっている。

僕は勘違いしてたみたいです。
自分に都合のいいように解釈しているだけなのかもしれないけど、僕はずっと逃げては、諦めかけて、また向かって、でも逃げようとして、でも諦めきれず。そんなこと繰り返して、どうせなにもできないのかなって、ダメな人間だなって、最近すごく不安だったんです。
本当に自分は、今とこの先を乗り越えられるのかなって。

でも、それは勘違いでした。

ダメな道をわざわざあるいてきた意味が、今すごく腑に落ちるんです。これだ!って感じでわーっと、嬉しいような、喜んでるような不思議な気持ちがかけ上がってきてるんですね。ほんとに不思議です。

僕はどうやら、ダメでもなかったみたいです。

ゆるい家族

 

僕は今まで、たくさん誰かに助けてもらってきました。

引っ張りあげてもらって、頼ってきました。

大学オケでも、それから以前までやっていた焼肉屋のバイトでもみんながいて、お父さん的な役割、お母さん的な役割、兄弟姉妹みたいな立場、じいちゃんばあちゃんみたいな立場と、いろんな属性の人たちがそこで共存していました。

良い意味で問題解決の逃げ場がたくさんありました。お父さんに厳しく叱られたりして、言ってることは分かるけど、そんなに強く言わなくたっていいじゃん!とふてくされてるときには、おじいちゃん、おばあちゃん的な人のところへ一旦逃げて、お父さんはこういうことが言いたかったんじゃないの?と相談なりして、自分なりの解決と納得をして、また戻っていく。

 

そんな家族みたいなことをやっていました。

僕は叱られることの多いダメ長男みたいな立場でしたが、それでもやるときはやってみせることができた・・・はずです。部活では2ndのパートリーダーのお仕事を3年生のときに引き受けることになって、みんなに支えられながら、最初はこんなのもうできない、俺にはもう向いてないよこれ、って弱音ばっかり吐いていたのに、最後には後輩たちから慕われ、同期からは成長したものだ、君は変わったねと褒められて最後の演奏会を終えることが出来たんです。

 

たくさん頼ってました。でも、これはお願い、よろしくねと、頼られてもいました。

みんなでひとつのことをやっていたから、チームだったんです。

出来ない子に、出来た!と思わせてやるために出来る人が進んで花を持たせてやるような、そういうチームに最終的にはなっていました。

合奏中に「なんだよ、俺も案外できるじゃん?」みたいに花を持たせておだてて調子に乗らせておいて、難しいパッセージや、あえてそいつが練習不足だと分かっている点をつつくみたいな、愛のある意地悪なんかもやりあったりして、お互いの成長を望みあっていました。

みんな君の一生懸命の努力を見てるし、努力していないところもちゃんと見てんだからね、と。

 

一生懸命練習してくると、必ずそこで花を持たしてくれるんです。じゃあ、一人弾きしようか?とか、絶対自信のあるところを一人弾きさせたりして。場慣れさせてあげたりする。みんなの前でうまく弾けると自信になるから。音も綺麗になるから。

 

逆に、絶対弾けないよって自信のないところは何度もみんなで弾かせておいて、やぶに隠れたって練習不足は見抜いてるからな?という意味をこめて、指揮者が「じゃあもう一回やってみようか?」と煽ります。奏者がごめんなさい、ちゃんと練習してきますから許してくださいまでが1セット。真面目に練習してる人たちからも煽られます。こっちは真面目にやってきてんだけどー?と茶化されます。それでも許されるのは、ちゃんと努力してきてるから。それにみんな、部活は楽しむものだからって分かってるからです。

 

こうしてみんなで上手になっていくのはとても楽しかった。

 

楽しむってどういうことなの?っていうのを僕は経験で分かってる。

一生懸命やって、出来ない人に花を持たせてやって、出来ないところはみんなで煽りあって、チクショーってやってまた頑張る。出来る人は、出来ない人を見て、蹴落とすのではなく、引っ張ってあげる。こんなこともできないんじゃやってらんないよーと愛をこめて茶化す。みんなでレベルを高くして、良い演奏がしたいねって意味で言うんです。

 

弱音を吐きたいときはそれをしっかり話して、後に持ち越さない。

問題があったときにはみんなで考えて意見をひとりひとり聞いてまとめて結論を出す。

 

別にこれは演奏に限ったことじゃなくて、バイトでもそうでした。

仕事、お勤めするという経験はしたことがないけれど、人間のやることだからたぶん同じことだと思うのですが、どうでしょう。

 

少なくとも僕はこういう生き方が好きみたいです。

何か頑張っていても努力していても、苦にならない。

こういうゆるいつながりで、今ここでできることを最大限に活かしてやっていく。悩んだら助けてくれる仲間がいる。行き詰ったら、一緒に先を目指す仲間がいる。

 

そして何より恵まれていたのは、うまく出来る人からまったく出来ない人まで、人間のバランスが良い感じにばらけていたことです。出来ない人ばかりでもないし、出来る人ばかりでもなく。

だから組織全体としてはうまくまとまっていた。部活でもバイトでもそうでした。

ゆるーくまとまっていた。だからそれなりに経験のある人は経験の無い人の面倒を見てやるくらいの余裕があり、経験の無い人は、僕もそこに含まれていましたが、一生懸命取り組むとそれが目に見えて結果に出てきやすい。経験者がうまーくおだててくれてる、お膳立てしてくれてるからです。

 

結局、出来る人たちが多すぎて強すぎると、弱者を甘く見るんです。見てしまいやすい。放置してしまいやすいんです。結果、出来ない人はそのままで、どこか他人事な雰囲気のままでいてしまう「出来ない子」が出てきます。仕事でもこんなこと、ありそうです。

 

で、今度は出来ない人たちが多すぎると、今度は組織として成り立たない。

向上心や、努力をもってしても全体としていまいちそれが結果につながらない。つながりにくい。だから途中で諦めてしまいやすい。こんなのでうまくいくのかなあって現実を客観視できる人ほど、不安になってしまいやすい環境だと、経験上思います。

 

つまり僕の言う「ゆるいつながり」というのは

1.その分野について長年の経験者~まったくの未経験者までがバランスよく混在する

2.なおかつ経験者が実際の業務が忙しすぎて手が回らないほど余裕がない、という状況が回避できている。

3.まったくの未経験者が素直で、学ぶ姿勢があり、自分なりに一生懸命にやっていること

 

この状況が再現できれば、間違いなく楽しい。少なくとも僕は楽しい。

この環境が”当たる”まで何度も何度も環境を変えてもいいし、いっそのこと、この環境を自分で創ってみるという方向に努力をシフトしてみてもいいのではないだろうか?

 

なんにしろこのままではだらだらと時間が過ぎていくだけです。

今までの数々の僕の所業を振り返るにそれは火を見るより明らかです。

 

バイオリンの修行だってあと何年やることになる?どこで、何年続けることができるかもわからないのに、宛もなくひたすらに努力をし続ける必要というのも、時と場合によっては確かにあるのかもしれないけれど、このままじゃ浮かび上がれない。僕の直感はそう告げているし、何かするなら今しかないじゃないか。

 

今ならまだ大失敗しても、生きていくくらいならどうにでもなる。

 

ならやってみない手は無い。

楽しい空間を創る。そのための条件はもう分かっているんだから、やってみない手は無い。

 

・・・ん~、わくわくしますね。

学校という枠組みさえあればうまくいくか?って、んなもの、トップが何を考えてるかによるでしょうよ。お金儲けになればいいやとか、学生の就職率がとか、何を念頭において学校を経営してるか、そのトップの手腕によるでしょうよ。

 

どうも僕の今通っている学校と、僕の理念というのは噛み合ってない。

学校がつまらないなら、着々と、どうしたら楽しく作業できるか、そこを考えようじゃないか。出来ない人同士、初心者同士でち~さな教室に引きこもって週5日作業するのは、やっぱり変だよ。僕にとってはそれは妙に感じる。

 

この小さな違和感と直感が、また逃げるための言い訳なのか

もっと楽しくやりたい!人生楽しく生きたいよ!という切な願いなのか

 

その答えは、未来になってみて、そこに実現しているものが答えになるでしょな。

でも変だよ。職人ならなおさら、技術が命の仕事なのに週5日もある貴重な時間を、出来ない人同士、狭苦しい空間でひたすら作業するって非効率的だよ、どう考えてもさ。

「本気」に囲まれて

 

ふざけんなよ!とオケの頃、実はよく怒られてました。

同期たちに。

 

ずーっと心に引っかかってます。後輩ちゃんが何を望んでいたのかって。

しばらく辛くて、苦しくて心が折れかかって逃げようとしてて、そんな折に後輩ちゃんから「私はどうしたら」と問われたとき、僕の中にすごくもやもやが残ったんです。僕はそれに答えてやれなかった。自信を持って、こうだ!という答えを、僕は持っているはずなのに、それを自ら捨てようとしていたからです。

 

僕の同期たちは本気で良い演奏がしたい、良いものが作りたい!って思っていました。

でも当初の僕はそんなものくだらないって目で、諦めたような、冷めた目でそれを見ていたんです。こんな下手くそな自分で、ファーストのあいつだって大してうまく弾けもしないのに、どうやってこれがうまくとか、良いものとか言えるんだ?って。

ひねくれていたんです。それまでに自分や人を散々否定してきて、いまさら信じられなくて。

 

でも彼らは本気で言ってたんです。本気で自分たちが上手くなれる、もっと良い演奏ができる。気持ちよく演奏がしたい!って思ってたんです。その想いに、冷めてしまった僕の気持ちもだんだん、彼らにふれていくうちに変わっていきました。

彼らは本気だったんです。

 

だから僕の、そのひねくれている態度や、どうせ・・・という姿勢に、本気で怒ったんです。良い演奏がしたいから、みんなで上手になって、良いものを創りたいから。

ふざけんなよ!お前!って。怒って、叱ってくれたんです。本気だったから。

あの時の僕は、高校時代も独りで過ごしてきて、孤独だったことを忘れられず、お前らもどうせそんなことを言ってるけど、俺のことだって見捨てるだろ?みたいに傷ついた自分のことばかり考えていて、見当違いな、八つ当たりばかりして、今思い返せば本当に彼らには迷惑かけてしまっていた。

 

でも僕のその歪んだ観点とは逆。

彼らは僕も一緒に含めて、僕が同期だからこそ、みんな一緒に良いものを作ろう!

お前もそこに含まれてんだよ!

って、駄々をこねる子供な僕の手を引っ張ってくれたのです。

仲間はずれにすることなんて一切、考えてなんかいない。

彼らが僕を叱ったのはいいものが創りたいからです。僕が適当な態度で、適当な練習をして、彼らの想いを踏みにじるようなことをすれば、いいものは創れない。だから怒ってたんです。

 

そうか、お前らは、良い演奏がしたくて、良いものが創りたいからそのために頑張っているんだな。そのためだけに、みんなで協力して、ひとつのものを作り上げているのか。・・・それなら、俺だっていつまでも駄々をこねているわけにはいかない。君たちに協力したい。君たちのその想いが本物だということを確かめたい。見てみたい。だって、僕だっていつかまではそういうことを信じていたんだ。でも、途中で信じられなくなって、そんなことを言う人間こそ、信用ならないんだって勝手に決め付けて・・・。

 

すごくひねくれていました。独りでいる時間が長すぎた、のかもしれません。

言葉通り、彼らは本気で、折れなかった。何があろうと、「良い演奏のために」「いいものをつくるために」という想いを曲げることはなかった。本気でそれを信じていた。どんなときも。

 

それからというもの、僕も彼らにひねくれず手を貸しました。君らは「良い演奏」がしたいんだったよな?俺もひとつやれることをやるさ。協力しよう!って演奏の工夫をしたり、練習法を改めたり、後輩たちに残せることに手を尽くしたり。それもすべて、いいものをつくるため。みんなで良い演奏をするためです。

そのためなら俺は手を貸しても良い、でもお前たちのその言葉が嘘だったとき、俺はもう2度と誰の言葉も信じるかって。口先だけじゃないって証明してくれ、もう一回、人を信じさせてくれって、あの時の僕はきっと心のどこかで願っていた。

 

後輩ちゃんも同じように、だから怒っていた。

彼女も、いいものをつくりたい。良い演奏がしたいって思ってたんです。

 

そして、あの時の僕がそれに自信をもって答えてやれなかったのは・・・

両方の気持ちが分かるからです。どこか頑張るのを諦めてしまった人たちの気持ちも、いいものがつくりたいって願う人たちの気持ちも、僕は両方知っている。下から上へ引っ張り上げてもらったから、両方、僕は分かるんです。

 

僕は本気に囲まれて、その中でひとりいじけて孤独でいようとした。

後輩ちゃんは、後輩ちゃんだけが本気で、周りがどこか諦めているから独りになって。

彼女は僕とは逆のルートだったんです。

 

そしてどこか諦めている人を救い上げる方法を僕は知っています。

数多くの、本気の想いにふれること。諦めちゃってるその心を前向きにさせるには、もう一度、本気でやれば大丈夫なんだ。人を信じても良いんだと、一度でもそれを証明してやること。ひねくれてしまった人間を救うには、本気で、頬をぶつくらいの、痛みが必要です。本当の、愛が必要です。生半可な想いでは彼らは救えない。たった一人でも救えない。愛に囲まれて、本気の想いに囲まれて初めて、浮き上がってこれるんです。

 

でも後輩ちゃんは、ひとりでそこで本気で居続けるという決断をしました。

良いものをつくりたいという想いをたったひとり、持ち続ける決断を。

 

「私、もう耐えるしかないんですかね?また笑顔を作って」

 

自分の事を本当に恥ずかしく思いました。それに、俺はなんてことをやっていたんだと思いました。俺がやっていたこと、かつてやってきてしまったことは、こんなにも人を苦しませるようなことだったのだと、ようやく理解したのです。

そうやってひねくれて、本気の想いをふみにじるようなことをして、諦めるようなことをしてきて。こうやって大切な人が目の前で傷ついて、苦しんでいるのを目の当たりにして、初めて自分のしてきてしまったことの、その過ちの大きさに気付いたからこそ、僕の心に、ひっかかったのだと、今ようやく理解します。

 

因果応報。その法則通りです。運よく、僕は引っ張りあげてもらったけれど、僕のしてきたことは、こういうことでもあったんだ。人に、本気でいいものをつくりたいと思っている人から笑顔を奪うようなことをしてきてしまったんだ。

 

なんてことをしてきてしまったんだろう。

馬鹿なこの男は、目の前で大切な人が傷つく姿を目の当たりにして初めて気がつく。

もう一度、自分のやってきてしまった「因果」を胸に、本気で、いいものをつくるために、その想いをもって生きよう。それが人を大切にするってことだ、大切な人の笑顔を守るってことだと、僕は心に誓うのでした。

おじいちゃん

 

後輩ちゃんが僕の事をどう見ているか。という話。

 

彼女の目は物事の本質を見抜くというか、感性が繊細でピュア。

で、僕と話してると楽しくておじいちゃんと話してるみたいだとかつて彼女は僕に言ったことがあります。

 

おじいちゃんって・・・。

ま、世間の何と言いますか、弱いものに対する、弱者やお年寄りや弱っている動物、ペットに対するような優しさを僕は向けられていたのかぁとそのときはだいぶショックを受けたんですが。ところがどっこい。

 

今日、砥石を揃えようと思って刃物屋さんへ買い物へ行ってきたところ、店主さんはこれまた面倒見のよさそうなおじいちゃん。僕が刃物は始めたばっかりですと伝えると、砥石のあれこれを教えてくれました。

ん・・・?この感覚どこかで・・・?

懐かしい感覚に気付きながら、僕は仕上げ用にも石が欲しいんだと言うと、そこでおじいちゃん。砥石は、うちにおいてあるのは人造砥石。あんまり細かい(人造砥石の番手のこと。600番とか2000番とか、その数字が高いほど石の目が細かいことを示す)石は売れないから置いてない、と仰る。でも良い研ぎが出来る人は最近は少ないし、いい刃物を使ってるならそれなりの石が必要になってくるけど、普通に買ってきたようなものならそれで十分、だそうだ。

はぁいと僕はどこか安心感を覚えながら聞く。もっと教えてくれないかなあ。きっと僕の目はキラキラしていたことでしょう。

それから砥石はコンクリートで平らが出せることや、冬場に一度凍らせてしまったりすると使い物にならないことや、あれやこれやと話をしてもらい、お店を出るとき、「私は60年、今は83歳だけど、ずっとお店をやってるから、何でも聞きにきな」と心強い一言を残してもらい、お店を後にします。

 

ん・・・?

おじいちゃんって、そういうこと?

 

ふんわりとした安心感から、ふと気がつきます。

バイオリンの弾き方のコツを教えたときにも、運営のあれやこれやのお金を教えたときにも、そういえば、俺はもう4年も5年も部活に携わってるから何でも聞きな、ってそういう態度だったのです。忘れていたけど、そういえば。

たかだか4年5年(留年もしていたし)、されど「大学生」という限られた期間の中では僕は経験上、十分におじいちゃんだったわけですね。人生においてはまーだまだ若造ですけど、これがまた今から40年、50年と大学のときよりも10倍増しのスケールで繰り広げられて、今度こそ本当におじいちゃんになるわけですが。

 

自分の性質もあいまって、何事も細かに分析せざるを得なかったわけだけど、それが結局役に立っていたのです。今回の部活問題の件は今までの大学生活では経験したことがなかったから、後輩ちゃんからしたら期待はずれで少し頼りないおじいちゃんだったかもしれないけれど。いやほんとに、人間ね、協力っていうか、平和を崩すのってすごく簡単なんだよね。強い心を持っている人でも、その中にいると、分からないもんだ。それでもかつての僕らのように、信念を胸に、諦めず、仲間と協力する道を選ぶこともできれば、仲間の事を悪く言い、お互いを監視しあって、蹴落としあう道もあるわけです。

今のおじいちゃんの結論は、だって部活だろ?俺たち楽しむためにやってんだぞ。同人で趣味で、仕事じゃあないんだぞ?楽しまなきゃな。ってことで今はどうでしょな。

本質的には仕事だろうと部活だろうと人間のやることですから、どうしてもお互いの立場や信念やら、都合やら事情やらが間にはさまってきて何かひとつのことをみんなでやっているってことは変わらないと思うんですけどね・・・。

でも部活でひいひい言ってみんなを悪く言うよりさ、せっかく部活なんだからひいひい言ってやるのだって、馬鹿みたいに指差したり、できねえでやんの!とか愛をもってからかったりして、みんなで出来ないことを前向きに経験していくのって、とっても良い時間ですよ。少なくとも僕はそれが良いことだったと認識していますし、その時間が、僕は好きでした。

 

人生で見たら、本当におじいちゃんになったときに、こうして良い体験・経験として残っていくんだな?なんて思っちゃったりしてます。生意気ですかね。

 

穴抜けの桶

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ここで紹介されてるこの「桶」。

僕は自分が発達障害かどうかは診断も受けてないし分からないけど・・・

 

matome.naver.jp

 

今まで生活してきて、今回の学校生活みたいに社会生活に馴染もうとすると、自分に明らかに欠けてるところがあることに、中学後半2年生くらいまでの思春期までの小さいころは違和感として認知し、今は実際の行動として自覚しています。

 

あの穴抜けの桶はその自覚イメージとぴったり合います。

出来ない部分が本当にゼロに近い。無いんですよね。だから周りの人と話したときとか、何かタスクを行うとき、それを補うために万全の策を用意していつも挑むんです。普段の学校生活でもそうでした。会話するのにも一苦労、相手の顔の認識、言いたいことの判断、主張していることが何なのかの認知。その辺りをいつまでたっても手動で、マニュアル操作をしないと認知できない、といえば良いんでしょうか。

だからどんなことをするときも、これが出来ないと怒られる、これがやれないと困るってことを目印にやってきたところはあります。その経験を元に、いちいちその状況を認知して、類似した状況にはこれ、この時はあの時に似てるからこれといった具合に物事にあたってきました。

 

気を遣ってそれが出来ている間は良好な人間関係が築けたり、物事もスムーズに行うことが出来ますが、自分が精神的に負担が大きいときだけでなく、日常のちょっとしたことで集中を欠くような心配事があるとき、それができなくなってしまいます。

 

で、今なんというか。上手くやろうとしすぎて息切れしちゃってるなと、思うのです。

というか疲れてしまった。全部いつかはひとりでやらないと生きていけないよなあと漠然と思っていたこともあって、今回、学校に行ってみて、ちっとも以前と変わらず、むしろ以前よりも認知が衰えてしまっていたことでもっと人間関係を作るのが下手になってしまっていた、物を習うことがすごく下手になっていたと感じて愕然と、ショックを受けてしまったのだと思います。

 

下手になった、というか、事実としてはしばらく後輩ちゃんや、同期の仲間といった“僕を知っている人たち”とのコミュニティにいたから、今まで対応してきた「外の世界」へのデータを一時的に遣っていなかったので、アウトプットが鈍くなっていただけだと思うんですけどね。

 

だから、その穴が抜けた部分って、抜けたままなんだと理解しました。

後輩ちゃんたちや、同期たちと仲良くなれたのも、当時僕はアウトプットにすごく気を遣ってたし、彼らもなんとなく僕の穴抜けの部分を持ち前の優しさで察してくれていたこともあって、彼らの協力があってこその関係です。それらの協力なしにして、僕はその相手の状況や状態、推察させられる心境、精神状態、それに類似した過去のデータはなかったかどうか、といったことを手動でいつも働かせることはできなかったでしょう。

 

そうやって協力してもらうことで、穴抜けの部分は補うことが出来る。

僕はそこを見誤って、自分だけで補わないといけない!と考えることで逆に自分を追い詰めていたんじゃないかと、この理屈から言えば、そう結論付けます。

もうひとつ勘違いしてはいけないのは、自分だけがやろうとするのも間違いだし、逆に相手だけに任せて、自分が相手を理解しようとする姿勢をもうとらなくていいということでもない。相手に理解させようとするのも間違いだ。

 

以前までなら、なるべく正確に対人ならそのときの状態をインプットして、次の会話をするときにそれを蓄積しておいて、似たような場面での会話リストを引っ張り出してきて、お話をするわけです。そういうことをやっていたから、オケの同期の人たちだって僕と話しをすることができ、そこを糸口にして、僕に協力をしてくれた。その生き生きやってる僕の姿を見て、後輩たちが僕を慕うようになった。後輩ちゃんが僕をきらきらした目で見るようになり、いつしか親友になっていた。

 

だからそこを勘違いしたのが間違いでした。

落ち着いた環境にいて、居心地の良い場所にいて、すっかりその自分の性質を忘れてしまっていたことも問題だし、もうこんなわずらわしいことしたくない。もう疲れちゃったよ、せっかくオケの人たちのときに一生懸命やって関係を作れたのに、新しい場所へ行くたびにその苦労をしなきゃいけないのかと思うと、すごくこの先が辛いだけのものに思えてしまって嫌だったのです。

 

だから僕みたいな人のことを、もっと分かってくれる人が増えたらいいのに。

もっと分かってくれてもいいのに、みたいに、苦しさ辛さからかそんな風に思うようになっていました。同じクラスの人を見ては、お前らはいちいちそうやって人間関係を、記憶から引き出して、あの時と似ているからこの時はどうやって話す、今の話し方はリストに無いから記憶しておいて後で参照できるようにしようとかって話したこともないんでしょ?それを新しい場所に行くたびにそうやってやってる苦しみなんか、わかりっこないでしょ。

みたいに。関係ない人たちの事まで僻んだり、恨んだりしちゃって。

 

自分が大変なことばかり嘆いて、相手にしてもらったことも忘れて。

 

だから僕は、この桶を直すことにします。

場所を変えるたび、板を貼りなおさなきゃいけない“ポンコツな”桶で、それが今、嫌で嫌で仕方ないと思って、関係ない人たちまで傷つけるようなことをしてしまった。自分のできなさを棚に上げて、相手にばかり望んで。

 

足りないところを直すのは大変です。

気合を入れすぎれば、一人で気負いすぎて空回りして俺一人でやるんだと息切れして、それでも助けなんかいらないと、他人のことを軽んじる。

大変だからと甘くしすぎれば、今度は相手にばかり面倒を見させようとして、それが叶わないと相手に文句さえ言い、感謝の言葉すらなく、他人を馬鹿にし、甘く見る。

 

でも今度こそ、直して生きたい。

きっとそれが正解だって思います。

律し続ける

 

どうして最近、上手くいかないんだろう。

いや、活動自体は何の問題も無い。バイオリンの刃物道具や準備だって着々と進んでいるし、GWの予定も、図書館へ出かけたり、作業本をコピーしたり、木材屋や工房にだって出かける予定でてんこもりだ。上手くいかないどころか、普通に考えたら充実している、それ以上に豊かな日々に間違いはないのだ。

 

それなのに。着々と進んでいるというのに、もやもやする。

自分のしていることに違和感がある。

このままでお前は本当にいいのか?と頭の中でささやきがずっと聞こえるような感じがする。頭がおかしくなったのだろうか?

日々は充実してるのに、未来のヴィジョンが明確に描けないから心配しているのか?

それとも、今自分のやっていることが、本当に仕事になるのか不安なのか?

 

いいや。違和感の正体はそれじゃない。

僕はかつてよりも、一人で出来るようになったことも増えたし、自分で決められるようになったことも、考えられることも増えた。自分の決断に、これでも責任は持っているつもりだ。

でもそんなことは、以前の僕に比べたら、という程度で、人に誇らしげに語ることじゃない。その程度の事でまた、すべてを自分で決断できると思うのも間違いだ。でも、以前の僕に比べたら、本当に出来ることが増えて、それでちょっとできるようになったくらいで傲慢になってしまったみたい。

 

そのくらいのことで、鼻にかけているようじゃ、きっとこの先成長できない。

 

普通の仕事でも、職人ならなおのこと。だから違和感を覚えたのだろう。

それで将来の事に漠然と、うまくいかないんじゃないかという不安になっていたのかもしれない。そのとおり、自分で分かっているじゃないか。

そんなことじゃ職人はつとまらない。いくら日々を充実させても、うまくやれているという気持ちにはなれないのは当然だ。

 

そして何よりも、そのうまくやれていない苛立ちから人に当たってしまってる。

 

心の中ではこんなことしてたって何もならないぞ!と分かっているのに。

どうしても衝動が抑えられない。

こんなことは、今までに何度かあった。僕の心の弱さの問題だ。

自分で自分の問題が抱えきれなくなると、いつもそれは他人への攻撃性になって現れてしまう。

 

暴力をふるうとまではいかずとも、傷つけるようなことを言ったり、他人から距離を置いたり、ルールや決まりを平気で破ったり・・・。

まだ僕の心はあの時と同じまま。もう強くなれたと思ってたけど、それは間違いだった。心の混乱をどうすることもできてない。それに対処する力が、身についてないじゃないか。

 

じゃあどうしてだ?なんで今まで乗り越えられたつもりになってた?

確かに人生、アクシデントや、これまでに経験したことの無い混乱だって、この先、生きてれば一つや二つといわず、何度かあるだろう。そのたび、逃げてきたか?いや、逃げたこともあれば、乗り越えたこともある。

じゃあ、今もそうじゃないのか。単にバイオリンの技術を学ぶ以上の、逃げちゃいけないことが、あるんじゃないのか。

 

この苛立ちと不安にどうやって向き合って、生きていくか、じゃないのか?

 

これがストレスだからって、嫌だからって、逃げてしまうのはすごく簡単だ。

この学校生活のストレスは経験したことがある。バイト先でも、大学でもそうだった。バイト先では職場を辞めることによって、大学では人と会っても平気なようにかなり余裕を持たせた授業シフトを組むことによって対処してきた。

でもかつてのやり方は、やり過ごしただけじゃないか。そりゃそうだ。

だって、今みたいに正攻法で向き合ったら、苛立ちや不安が抑えきれず、人を傷つけるし、自分も相手も嫌な思いをするから・・・

 

でも、そうだ。ひとつだけ違うことがあった。

部活だ。大学オケのとき、同じことを僕は、同期の彼ら、彼女らに向かって心のうちを吐露したことがある。

 

人を傷つけるし、自分も相手も、何もとりえが無い、出来ない俺がやって、迷惑をかける。困ったことになる。嫌な思いをするから・・・と。

 

また同じことをしているのか、僕は。

あの時、彼女らになんて言われて向き直れたんだ?

 

「だったら、とりえを作ろうよ、迷惑かけないようにしようよ、嫌な思いをさせないようにしようよ。だってあなただって、そんなつもり、ないでしょう!」

 

そうだったはずだ。そんなつもりない。でも何度やってもダメだったから諦めようと、逃げて別の手段を使って、近道したほうが楽だって、ずっとその考えが、あの時君たちに叱られたにも関わらず、分かってなかったみたいだ、この男は。君たちと過ごす時間が終わって、また元に戻ってしまっていたみたい。

 

違和感の正体はそれだ。

 

自分の弱い心を制御できてない。

今度こそ、助けてくれる味方もそばにはいない。でも助けてくれたじゃないか。

それなのに僕は、それを無碍にするようなことをして・・・

違和感を感じないはずがないだろう。

 

上手くいかない気がするなんて、当たり前だ。

ピンと来ないのもそうだ。

 

あの時僕は絶望していて彼女たちの言葉にそんなことをしても無駄だ。人間はその程度じゃ変わりはしないし、環境も状況も一時的に良くなるだけで、それをし続けることができるのか?と意地悪を言った。

たとえ君たちが、それを出来たとしても、その次の世代、自分たち以外がそれをしていなかったら、自分たちの中の誰かがそれをできなかったら?そんな屁理屈ばかり言って、向き合うのが怖かったんだ。

 

でも彼女らの言うまま、日々をそうして自分が制御できるように、心の衝動をうまくコントロールしながら過ごして、とりえを作ったり、嫌な思いをさせないようにしたりして過ごしたら、本当に日々が明るくなった。嫌なことやうまくいかないことはあるけれど、でも上手くやれているんだという実感はそこにある、不思議な気持ちだった。

 

でも部活が終わって、彼女らがいなくなって、かつての僕の言葉通り、部活の雰囲気は一変した。

それで僕は試されていたのかもしれない。

それでも彼女らの言葉を信じることが出来るか?自分の弱さを律することができるか?って。結局、楽なほうへ、自分の衝動を律さなくても良い方向へどんどん流れてしまってた。どうせこんな現実があるんだ、自分が頑張る必要なんてないじゃないかという心があったんだ。まだ僕の心の中には。それが消えたわけじゃなかったんだ。

 

というか、いつもそれはいるし、消して押しつぶせるものでもない。

こいつはいつも存在して囁いてる。

それを律することがこの前までできていたのは、それを実行している仲間たちと過ごせていたから、その支えがあったからだ。

 

たとえその支えがなくても・・・

もう分かってるはずだ。どうしたら律することが出来るか、その甘さを囁く声をどうしたら、黙らせてやることが出来るのか。

 

今度は自分ひとりでも、もう出来るはずだ。

彼女らがいなくてもその甘い囁きに流されてしまうことなく。

 

あそびの部分

 

何のために力が欲しいんですか。

上手くなりたいとか、今より成長したいってなんで思うのよ。

 

真面目な人。フツーに就職活動したり、フツーに世の中で生きてる人はこれまたフツーに答える人が多い。お金のため。キャリアのためだって言うんです。今後の生活のため、結婚したいとか、家庭が欲しいとか。

普通ですよね。至極真っ当です。

 

僕が上手になりたいとか、今より成長したいと思うのは面白いから。

それ以外の理由は無いです。馬鹿らしいことって面白いんです。

例えばバイオリン。これを弾くのにも、くそ真面目に弾くと例えば音階のどうのこうの、指に場所を覚えさせる基礎練習があったり、それは分かりますね。何事にも基礎ってありまして、とっても大切な土台になるものです。が、そんなことくそ真面目にやらんでも、弾けます。というかここをくそ真面目にやっちゃうとたぶん弾くのってつまらないって多くの人が思うだろうと。

 

どういうことかというと、プロでさえも言うんですよ。「基礎練習のために基礎練習なんかせんでいい。時間の無駄だから」って。何のために君はその指が動かせるになったりとか、何のために音階を何度も往復したりとかしてるの?ということです。

バイオリンってけっこう魅せ技ってあるんですよ。かっこいい、見た目が派手、地味だけど玄人っぽい、そういう場面が曲を弾いてると出てくるんですね。ここをちょろんって弾けると周りも「すげえ!」ってなるんですが、僕はなにより自分がこんな部分を弾けてるんだぜ、ちょろんってやれちまってるんだぜ?と自己陶酔に浸るような気持ちと、そこからあふれ出る音楽を弾くことの喜び、楽しさを感じるのです。

 

なんてそれっぽく書きましたが本当にくだらないところばっかり練習してました。

ポジション移動といって左手の弦を押さえる指の位置を変更する動作があるのですが、あれも真面目にやっててつまらないからわざわざハイポジションで弾いてみたり、弓の動きも退屈なので全部スラーにしてわざわざ難易度を上げてみたりとか。そんなことばっかりやってました。

くそ真面目にやってもつまらないんです。みんな真面目にやってるけど、それ楽しい?楽しいんならいいんだけどさあ。みたいな感じで。ちなみに僕がそんなことを大学オケに所属している間、まかりとおすことが出来たのはやはり、破天荒・型破りのファーストの彼のおかげです。彼もそういう馬鹿みたいなことに楽しみを見出す男でした。返事をわざわざ「へい!」と言って精神力を高めようとするような奴ですからね。そこに共通性があるのは言わずもがな。

 

返事ひとつとっても、基礎練習ひとつとっても、楽譜の読み方にしても、普通じゃない。理由はまじめにやると長続きしないから。そしてプロ理論的にはそれはちゃんと理にかなっている。不思議なもんです。ひとくちに真面目にやるって言ったって、真面目真面目ってうるさいだけです。はい、とか、へい、とか、ほい、とか言ってたら面白いじゃない。それは完全に僕の好みですが。オフィスに仕事場に学校に、毎日通うんだとしたらこういうどうでもいいところに遊びがないとやってられない。だってただでさえ、毎日同じようなことをするのって退屈なのに、業務自体は変えられないのだとしたら、ほんとこういうところで遊んでやらないと、人間おかしくなっちゃうよ。僕だけかなあ。

少なくとも1992年生まれの僕の同期たちにはこのようなある種のあそび、前向きな不真面目さを楽しむことの出来る余裕とも言うべき、または退屈なことを長続きさせるための暗黙の了解的な楽しみ方を持っている人たちがわりかし多いなあと感じます。

 

楽器作りの、バイオリンの一流と呼ばれる職人さんに2人ほど会ってみたりしたのですが、その人たちに共通するのは気さくでをタバコをばかばか吸って、あそびの部分を存分に楽しんできた、その雰囲気が熟成されて良い感じに醸し出されている職人のおじいちゃんというか、アウトローな雰囲気のおっちゃんたちでした。

 

だから僕はてっきりバイオリンの業界ってそんなもんなのかなあなんて思ってたんですが、とかくいろんな人がいるものです。真反対のくそ真面目、真面目のための真面目で、遊びが無いスタイルの人もいる。これが今の学校ですね。

でも今の一流の人たちってそんなことしてない。真面目のための真面目じゃなくて、遊びの部分を残しつつ、楽器に向き合い、数をこなし、腕をあげてきてるのです。そのやり方には自分の中にも十分覚えがあるわけで。

 

そのあそびってのは、ものを長続きさせるための知恵でもありまして

また長く続けられるってことはそれに中身が伴っていれば上手くなるのも至極当然でして。

 

理屈で言うと真面目になっちゃいますね。

でも真面目なことなんてやってないんですよ。くだらないあそびをして、まじめなことやどうしても避けられない真面目な場面をやり過ごす。

 

中学時代なら部活の基礎練習、体力づくりでマラソンみたいなことをしていましたが、そのマラソンもひたすら走っているだけだとつらいっす。朝練ってことで7時から走りこみです。くそ食らえですが、とりあえずは一生懸命走るんです。それだって、終わった後に、駐輪場を通るのですが、そこでみんなでやるんです。何を?でかいクモの巣を見つけて、秋ならトンボとか、虫をそこに投げ入れるとゾゾゾーっとクモの巣に比例した大きさの大グモが出てくるんですね。捕食シーンが大迫力で見られるわけです。

 

ああ、こんなのがみんなで楽しめるなら走る価値はあるなあ、真面目なこともやってやってもいいかって横暴にも思っていたことを今でも覚えています。

 

あれから僕は本質的には変わっていないということにも気がつきます。真面目なことをやってると拒絶反応が出てしまう。真面目なことをやる代わりにどうしてくれんだよ?おい?って感じの心の声が常に、そういえばあります。

例えば今のバイオリンの学校でもそうですね。みんなでいいーこに、教室でやってるともうだめです。面白いことしようよ、木工細工とかさ、授業なんかどうせ追いつくから遊ぼうぜ!的な。レポートなんか書けって言われりゃ書けるんだから学校のレポートなんて出す必要ないぜ!みたいな。だって学校だよ?お金払って何を教えてもらいにきたのさ。中学までは義務だけど、それからは自分で学びたいことを決めてきてるんでしょ。それと関係ないことを提示されたら、嫌ですって拒否しようよ。学校がそういう決まりだからとか、関係ないよ。・・・なんて思うのは僕が不真面目なだけなんでしょうか。

 

僕にとっては長い目でものを見てるから、今真面目かどうかなんて些細なことです。

そこにとらわれないで生きてみると、時におもいきり共感できる人にも会うし、それとは真逆の大真面目に生きてる人にも出会うこともある。孤独になったり、友がいたり、いなかったり。

 

ね、長くものを続けるってのはけっこうすごいことです。

その間に疲れちゃったり、情熱を失ったり、楽しみが消えちゃったりしてる大人を見てきて思ったことは、とにかく遊びが無い。それだけです。真面目すぎる。

今の世の中、義務で働かなくちゃなりません、って強制的に労働に参加させられているシステムなんだから自分の意思とは関係なく、働かなくちゃいけないんですよ。中学までと同じで、義務なんですね。

それをくそ真面目に受け入れてたら、おおよそ、なんで働くのか、それは義務だからってだけの理由で働いて生きるのを続けていたらそりゃ、人間しおれてくるわけだ。

 

そんなことに気付くのがしばらーく働いて、会社や何かに尽くしてきて、ふと自分の人生を振り返ってみて、いろいろの意味を考えてみて、年老いてからああすりゃよかったって、若者について思うみたいですね。還暦過ぎてから、とか40歳くらいになってから、少し落ち着いてきた(感情が鈍ってきた?)ところでふと、そんな風に振り返る大人もいるみたいです。

 

仕事にも遊びを。長く続ける上でとても、大切なことだなと思います。

生きるうえでも同じく、そう思います。